都幾山 慈光寺(じこうじ) Jikouji Temple 坂東三十三観音霊場第9番札所 8.Nov.2012 天空仙人の神社仏閣めぐり
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「都幾山 慈光寺 欄間彫刻」 |
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「都幾山 慈光寺 欄間彫刻」 |
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「都幾山 慈光寺 青石塔婆」 |
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「慈光寺 観音堂」 | 「慈光寺 観音堂」 |
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Kannondo | Kannondo |
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「十一面観音菩薩」 | |
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Jyuichimen Kannon Bosatsu | |
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「開山堂」 | 「山門」 |
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Kaisando | Sanmon |
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「雷神」 | 「風神」 |
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Raijin | Fuujin |
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「如意輪観音」 | |
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Nyoirin Kannon | |
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「鐘楼」 | 「青石塔婆」 |
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Shourou | Aoishi Toba |
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埼玉県比企郡ときがわ町西平396
396,Nishi-daira,Tokigawa-machi,Hiki-Gun,Saitama
九十六世信海が書きました寺伝『都幾山慈光寺実録』によりますと、天武天皇の2年(673年)癸酉、 僧慈訓が当山に登り慈光老翁の委嘱を受け、千手観音堂を建て、観音霊場として開基しました。 その頃、役小角が伊豆の国に配流となり、関東を歴遊して当山に至り、西蔵坊を設け修験道場としました。 奈良時代になりまして、唐より波濤を越えて来朝しました鑑真和上の高弟、釈道忠によって、慈光寺は創建されました。 道忠は、仏法を広めるため東国を巡錫しましたが、徳望篤く利生に努めましたので、民衆より広恵菩薩と敬称されました。 道忠は、当山に仏像を建て、1尺6丈の釈迦如来像を安置し、一山学生修学の大講堂としました。 平安時代になりますと、伝教大師最澄が比叡山に天台宗を開教しましたが、 その折には道忠教団によって2000余巻の経典が奉納されたと『叡山大師伝』に記されております。 桓武天皇の延暦2年(783年)、伝教大師により天台密教の教旨が当山に弘通されました。 その後は、台密の教法を修学する学徒と役小角の流れをくむ行徒二派が修行する女人禁制の道場として、 また千手観音の霊場として栄えました。 特に清和天皇には、天台別院として「一乗法華院」の勅額を賜りました。 貞観13年(871年)には上野国大目安部小水麻呂が、「大般若経」六百巻を書写し、当山に奉納しました。 これは、筆跡優れた古写経として、国の重要文化財に指定されて現存しております。 鎌倉幕府を開いた源頼朝は、当寺に崇敬の念篤く、文治5年(1189年)奥州の藤原泰衡追討に際し、 戦勝祈願のため愛染明王像を当山に贈りました。 また、寺領として1200町歩を寄進した建久2年(1191年)の源頼朝寄進状が、今に残っています。 このためでしょうか、華麗優婉な装飾経として有名な国宝「慈光寺経」がもたらされて伝来しております。 これは、後鳥羽上皇を筆頭とする藤原兼実一門が結縁のため書写した「法華経」の一品経であります。 建久8年には、臨済宗の祖・栄西禅師の高弟栄朝禅師が参りまして、当山に臨済宗の霊山院を創建し、禅道場が開かれました。 この頃が慈光寺の全盛でありまして75坊が甍を連ね、壮大な寺院群は、輪奐の美を誇ったといわれております。 今残る慈光坂の丈余の板碑群は、その頃の栄華をしのぶものです。 戦国の時世では、当山も僧兵を傭し、近隣の城主との抗争に明け暮れましたが、 それも太田道灌等によって焼き討ちの憂き目にあい、栄華を誇った寺院も衰運をたどることになりました。 江戸幕府の世となりまして、寺領百石が与えられましたが、とりわけ、3代将軍家光の室桂昌院の信仰があつく、 奉納された貴重な品々を今に見ております。 昔は慈光寺がこの地方の政治・経済・文化の中核をなしておりまして、その伝統や技術が、 今なお盛んな、ときがわ町の建具や、小川の手漉き和紙、そして狭山茶の産業として息づいているのであります。 今日、慈光寺は、比企山中の木立深き、静かな寺として、坂東三十三観音霊場第九番札所の巡礼を迎え、 また週末には、マイカーの現代の人々が来山して憩う日々であります。 合掌 慈光寺オフィシャルサイトより
都幾川村指定文化財 慈光寺観音堂 1棟 江戸時代・享和3年(1803)、平成元年4月11日指定、平成9年4月12日修復 阪東三十三観音霊場第九番札所都幾山慈光寺観音堂の本尊は木造千手観音立像です。 寺伝によれば、天武天皇2年(673)に僧慈訓により創建されたといわれます。 現在の観音堂は、享和3年(1803)に97世義然が再建したものですが、 歳月の中で老朽化は進み将来への継承が心配されていました。 そのため修復事業に着手し、村内外からの寄付金、県・村などの補助金と慈光寺により平成5年度から4ヶ年をかけ、 本尊の解体修理や茅葺から銅葺への改修、堂内外の修復と周辺整備を行ないました。 観音堂は、入母屋造・銅板葺きの屋根、軒は二重繁垂木とし、本尊を安置する内陣の柱は円柱で三間(約5.4メートル)四面です。 前方に12尺3寸(約3.7メートル)出して礼拝の間(外陣)を設け、その前方には1間の軒唐破風付きの向拝を出しています。 外陣は吹き放しで、履物のまま昇殿できる様式は札所建築の特徴でもあります。 さらに細部をみると、柱ごとに彫刻木鼻をつけ、虹梁に細かい文様の地彫または彫刻を施し、 その上は彫刻欄間で飾っています。 内陣は格天井とし紋尽くしの文様を画き、来迎柱には極彩色が施されています。 なお、外陣に千手観音の眷属である風神・雷神をはじめ28部衆の欄間彫刻があることは特徴でもあります。 本尊千手観音立像は秘仏ですが、毎年4月第2日曜日と17日に厨子が開かれ拝観することができます。 この御開帳日には多くの信者が登山し、盛大に護摩法要が行なわれ賑わいます。 また、季節を通じ全国から多くの巡礼者の参詣が絶えません。 堂内には廃絶した山内諸堂から木造十一面観音立像・木造毘沙門天立像が合祀され、 外陣には賓頭盧尊者坐像、その天井には伝説の「夜荒らしの名馬」が安置されています。 埼玉県指定文化財 本尊:木造千手観音立像、像高:270センチメートル 頭部:室町時代・天文18年(1549)制作 体部:江戸時代・享和2年(1802)制作 平成12年12月 都幾川村教育委員会 境内 案内板より
如意輪観音 如意輪観音は、観自在菩薩が、説法する姿を示現したもので、如意宝珠と輪宝をもって衆生を救い願いをかなえる。 如意宝珠は、濁水の浄化・衆生に福徳を与え、輪宝は悪を破砕・正法の弘通を意味する。 この観音は江戸中期ころから、民間に取り入れられ特に女人信仰が盛んとなり、村々に集落ごとに、このような如意輪観音が、 祀られ、二十二夜さまの本尊として残っている。 宝珠と蓮華の代りに、赤子抱いている珍しい慈母観音である。 娯楽の少ない昔は、月の二十二日の夜この観音さまの前に女衆が、供物や食べ物を持ち寄り、喜びや悲しみを語り尽くしたという。 この如意輪観音は、地元の雲河原村大字小戸々(現在の都幾川村大字雲河原小戸々)産出の小戸々石を彫刻したものである。 台石の左右に「寛政八丙辰栽」孟冬吉祥日(1796)當邑講中善男女 発願主 浄土院 浄恵と造立年月日が刻されている。 元は浄土院念佛堂跡にあったものである。 合掌 都幾山 慈光寺 境内 案内板より
国指定重要文化財 寛元三年銘 銅鐘 一口 鎌倉時代・寛元3年(1245) 昭和25年8月29日指定 この鐘は鎌倉時代の寛元3年(1245)5月18日に栄朝が願主となって東国の名工「物部重光」が鋳造し、慈光寺に奉納した銅製の梵鐘です。 鐘の表面(池の間)には陽鋳による銘文が次のようにあります。 池の間第一区銘文 「奉冶鋳 六尺椎鐘一口 天台別院 慈光寺 大勧進遍照金剛深慶 善知識入唐沙門妙空 大工物部重光 寛元三年乙巳五月十八日辛亥 願主権律師法橋上人位栄朝」 池の間第四区名文 「銅一千二百斤」 この銘文によると、鎌倉時代に隆盛を極めていた慈光寺が「天台別院」であったこと、 後に鎌倉大仏や鎌倉建長寺の梵鐘(国宝)の製作で知られた「物部重光」が鋳造したこと。 臨済禅を日本に伝えた栄西の弟子で、霊山院や群馬県尾島町世良田の長楽寺を開山した「栄朝」が願主として奉納したことがわかります。 また、「銅一千弐百斤」(約720キログラム)とあり、原料の使用量がわかります。 この鐘は総高150センチ、口径88センチで、重量は709キログラムあります。 年代のわかる梵鐘では埼玉県内最古であり、 鎌倉時代から南北朝時代にかけて関東で活躍した物部姓鋳物師の研究や慈光寺の繁栄を物語る貴重な文化財であります。 なお、この鐘楼は昭和60年11月26日の火災により釈迦堂や蔵王堂とともに焼失しましたが、 寺の復興を願う関係者の浄財により平成2年に再建しました。平成12年3月 都幾川村教育委員会 境内 案内板より
慈光寺開山塔は、鑑真の弟子で慈光寺を開山した釈道忠(広恵菩薩)の墓に建てられていたと伝えられ、覆堂の中に安置されている。 現在の開山堂は、総高5.10mの比較的小型の木造宝塔で、 室町時代末の天文25年(1556年)の銘が露盤にあったという記録と建築技法により、 この頃に建てられたものと考えられている。 1階は八角形の土台に八本の円柱を建てて円筒形とし、上端に厚板の亀腹、側面の四方に桟唐戸(扉)を設けている。 2階は1階床から立て上げた円形の軸部(中心部)の上部に組物を置き、 方形の屋根を支えている。 屋根は板で葺いた「とち葺き」で勾配が急になっている。塔の先端にある相輪は欠損していたが、 昭和39年の解体修理により復元されたものである。 慈光寺開山塔は、独特の建築技法とともに国内唯一の室町時代の木造宝塔として、極めて貴重な存在である。 都幾川村教育委員会 境内 案内板より
慈光寺山門跡の板碑群 慈光寺山門跡に立つ9基の板碑は、鎌倉時代から室町時代にかけて造られた供養塔です。 表面の大きな梵字は本尊を表し、仏像彫刻と同じように蓮座の上に刻まれています。 蓮座の下には年号や願文など造立の目的が刻まれています。 個々の板碑の造立目的をみると、摩滅の進んだ十三仏種子板碑は判読できませんが、 1番大きい貞治4年銘板碑は、慶秀・頼承・慶救の3名が、 寺ゆかりの頼憲・専信・頼慶など14名の僧侶の霊を供養するために造立したことがわかります。 また、元亨4年銘板碑は朋全という僧侶が自らの死後の往生を願う逆修供養のために造立したことがわかります。 これと同様に逆修供養のために造立した板碑が5基1、2、6、8、9があります。 この場所は大型板碑が群立する景観として知られていますが、明治時代の初期に山中の僧坊跡から移設したものと考えられています。 なお、板碑の年代および現状の大きさについては、左から順に次のとおりです。 1.嘉暦2年(1327)銘 阿弥陀一尊種子板碑 鎌倉時代 高さ 141.0cm 幅 40.0cm 厚さ 5.5cm 2.文和4年(1355)銘 阿弥陀三尊種子板碑 南北朝時代 高さ 137.0cm 幅 39.0cm 厚さ 5.0cm 3.弘安7年(1284)銘 阿弥陀一尊種子板碑 鎌倉時代 高さ 123.0cm 幅 42.4cm 厚さ 4.5cm 4.十三仏種子板碑(年代不詳) 高さ 140.0cm 幅 40.4cm 厚さ 3.5cm 5.貞治4年(1365)銘 阿弥陀一尊種子板碑 南北朝時代 高さ 272.0cm 幅 65.0cm 厚さ 7.0cm 6.元亨4年(1324)銘 阿弥陀一尊種子板碑 鎌倉時代 高さ 256.0cm 幅 64.0cm 厚さ11.0cm 7.元亨4年(1324)銘 阿弥陀一尊種子板碑 鎌倉時代 高さ 255.0cm 幅 65.0cm 厚さ10.7cm 8.徳治2年(1307)銘 阿弥陀一尊種子板碑 鎌倉時代 高さ 221.0cm 幅 56.0cm 厚さ 9.0cm 9.寛正5年(1464)銘 胎蔵界大日種子板碑 室町時代 高さ 218.0cm 幅 68.0cm 厚さ 7.0cm 境内 案内板より
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