筑波山 大御堂(おおみどう)      Oomido Temple    坂東三十三観音霊場第25番札所       26.Nov.2010        天空仙人の神社仏閣めぐり


筑波山 大御堂
「筑波山 大御堂」

筑波山 大御堂 筑波山 大御堂
「筑波山 大御堂」
Oomido Temple
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筑波山 大御堂 筑波山 大御堂
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筑波山 大御堂 弘法大師空海像 筑波山 大御堂
「弘法大師空海像」
Kobodaishizou
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筑波山 大御堂 鐘楼堂 筑波山 大御堂 祈願石
「鐘楼堂」「祈願石」
ShoroudoKiganseki
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筑波山 大御堂 筑波山 大御堂 がま
「がま」
Gama
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筑波山 大御堂 紅葉 筑波山 大御堂 紅葉
「紅葉」「紅葉」
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筑波山 大御堂 紅葉 筑波山 大御堂 紅葉
「紅葉」「紅葉」
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坂東札所 第25番 筑波山 大御堂(おおみどう)

Oomido Temple

茨城県つくば市筑波748

748,Tsukuba,Tsukuba-shi,Ibaraki


御本尊 千手観世音菩薩

第二十五番 筑波山 大御堂

【御詠歌】 大御堂 かねはつくばの 峯にたて かた夕ぐれに くにぞこいしき

延暦元年、東国の化王と仰がれた徳一上人ここに錫を留め、伽藍を興して千手観音をまつり、知足院と号す。のち弘法大師 筑波山に登拝、密教の結界をなして中禅寺と称す。

室町時代、文明18年道與准后は修験道の流布に訪れ、また、江戸時代には幕府の保護篤く、 千五百石の寺領に高い寺格を誇った。特に三代将軍家光公は、18間 4面の大御堂をはじめ、三重塔・鐘楼・山門などの結構を整え、また、隆光僧正出でて権勢他に比類なかりしが、 明治維新の神仏分離令により、筑波神社と分かれ、今日に至る。

昔は男体・女体の二峯は千手・十一面観音を本地とする権現信仰が栄えた。

筑波山 大御堂 御朱印 より


中禅寺知足院 大御堂

真言宗豊山派の寺院。筑波山神社近くにあるが、明治の廃仏毀釈、神仏分離までは、一緒の存在であった。 その時に、大御堂、十一面観音堂など華美を尽した堂塔は打ち壊され、仏像、仏具経巻等は境内に積まれ焼却された。 本尊千手観世音は、尊崇する信者によって手厚く護られ、仮堂に移されたが、寺籍なき状態が続いていた。 大御堂は社地の東に移転して、昭和5年(1930)に仮堂のみ再建されたが、昭和十三年(1938)の山津波で倒壊。 現在の建物は、昭和36年(1961)民家を移したものである。

伊弉諾尊と伊弉冉尊が国造りをした時、東方で最初にできた山が筑波山とされる。 この山には絶頂が二つあり、西の峰には伊弉諾命が鎮座したので男体権現、 東の峰には伊弉冉命が鎮座したので女体権現と称した。 また、日の神が父母の二神を慰めるため、山頂で琴(筑)を弾いたところ、海の波が山まで着いたので、筑波山と号したという。

延暦元年(782)徳溢法師が当山に登ると、一人の天童が現れ、月輪洞と称する岩窟の場所を示した。 そこで法師は、岩窟の近くに庵を結んでいると、麓の巫女が神憑りとなって、山の故事を法師に語った。 このことを都に奏上し、桓武天皇の勅によって、筑波山頂二社を再建、筑波山大権現と称し、中腹に堂宇を建立して、 本尊千手観音を安置、知足院中禅寺と号したといわれている。 その後、百三十歳となった法師は、岩窟で定に入ったという。

弘仁年間(810〜824)になって弘法大師が筑波山に登り、徳溢法師の岩窟の前に立つと、なかから声がして、山の故事を説き示した。 大師が山を結界して邪神を退けると、巫女に神託が下って「国家のために正法明の像を造り、この補陀落の主尊を立てよ」と告げた。 そこで大師は、千手観音の尊像を刻み、二神の本地とした。これが現在の大御堂の本尊といわれている。

江戸時代には徳川家の厚い庇護を受け、本堂を始め三重塔、鐘楼、楼門等を建立した。


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