市川 弘法寺(ぐほうじ)      Guhouji Temple      7.Oct.2007        天空仙人の神社仏閣めぐり

弘法寺 Official Page
市川 弘法寺 写真 仁王門 市川 弘法寺 写真 祖師堂
「仁王門」「祖師堂」
Niou-monSoshi-do
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市川 弘法寺 写真 太刀大黒堂 市川 弘法寺 写真
「太刀大黒堂」
Tachi-daikokudo
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市川 弘法寺 写真 赤門 市川 弘法寺 写真
「赤門」「鐘楼」
AkamonShourou
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市川 弘法寺 写真 里見龍神 市川 弘法寺 写真 里見龍神
「里見龍神」「里見龍神」
Satomi RyujinSatomi Ryujin
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市川 弘法寺 写真 市川 弘法寺 写真 濃縁観音像
「濃縁観音像」
Nouen Kannon-zo
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市川 弘法寺 写真 市川 弘法寺 写真
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市川 弘法寺 写真 金剛力士像 市川 弘法寺 写真 金剛力士像
「金剛力士像」「金剛力士像」
Kongo-rikishiKongo-rikishi
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市川 弘法寺 写真 市川 弘法寺 写真 伏姫桜
「伏姫桜」
Fushihime-zakura
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市川 弘法寺 (ぐほうじ)

Guhouji Temple

千葉県市川市真間4-9-1

4-9-1,Mama,Ichikawa-shi,Chiba


日蓮宗 本山 真間山弘法寺

ここ真間山弘法寺(ぐほうじ)は奈良時代、天平九年(737)、行基菩薩がこの地にお立ち寄り になられた折、里の娘、手児奈の哀話をお聞きになり、いたくその心情を哀れに思われ、一宇(い ちう)を建てて「求法寺(ぐほうじ)」と名づけ、手厚くその霊を弔われました。

それからおよそ百年ほど経た平安時代、弘仁十三年(822)に弘法大師(空海)が教えを弘めら れるためにおいでになられた時、求法寺を七堂伽藍に再建され、寺号を一新して、「求法寺」を「 弘法寺」と改称されました。

その後、鎌倉時代に入り、建治元年(1275)に、時の住持、了性法印尊信(りょうしょうほう いんそんしん)と、中山法華経寺、富木常忍公(ときじょうにんこう)との間に問答があり、日蓮 聖人は六老僧の伊予房日頂上人(いよぼうにっちょうしょうにん)を対決させられたのです。

その結果、日頂上人が法論に勝たれたため、爾来、弘法寺は法華経の道場となり、日頂上人をして ご開山とすることとなりました。

当山は元亨三年(1323)に千葉胤貞公(ちばたねさだこう)より寺領の寄進を受け、天正十九 年(1591)に徳川家康公より御朱印状を賜り、元禄八年(1695)には水戸黄門公が来詣さ れた折、茶室を賞(め)でて「遍覧亭(へんらんてい)」と称されたと伝えられております。

明治二十一年(1888)火災のため、全山、悉く灰燼(かいじん)に帰し、現在の諸堂は明治二 十三年(1890)に再建されたものです。大客殿は立教開宗750年、開山日頂上人生誕750 年の慶讃事業として、平成10年に完成。大広間には、当山の布教モットーである。「憂破破・和 波波」(憂いを破り、和の波を広げよう)が村上豊画伯によって画かれています。


福再来の太刀大黒天神(たちだいこくそんじん)

大黒堂に安置される「福再来(ふくさらい」の太刀大黒天神のご尊像は、日蓮大聖人が比叡山でご 修行のとき、建長元年(1248)、そのお姿を感受され彫刻されたもので、以来建治二年(12 76)御年五十五歳まで片時も離さず肌身につけて奉持されたといわれています。

その後、日蓮大聖人は、太刀大黒天神を日頂上人に授けられ、さらに真間山が法華経の道場になっ た折、当山に安置され今日にいたっています。

実に珍しい太刀大黒天神像は正月元旦と初甲子にかぎり「福再来」のご利益を感受できるご尊像と して信仰を集めています。

弘法寺 しおり より


真間山 弘法寺

弘法寺は、略縁起によると、奈良時代、行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求 法寺がはじまりであり、その平安時代、弘法大師(空海)が七堂を構えて「真間山弘法寺」とし、 さらにその後転じたとされる。

真間の地に、かつては北に六所神社があり、国府が設置されていた古代以来の下総国の中心地であ った。そのためここに古くから寺院があった可能性は高く、本来は国府と密接にかかわる寺院であ ったとの推測もある。

鎌倉時代、この地に及んだ日蓮の布教を受けて、建治元年(1275)、時の住持了性が日蓮の弟 子で中山法華経寺の開祖日常と問答の末やぶれ、日蓮宗に転じ、日常の子で六老僧の一人日頂を初 代の貫首としたと伝える。

鎌倉末期の元亨3年(1323)には千葉胤貞により寺領の寄進を受け、延文3年(1358)の 日樹置文によれば葛飾郡一帯や千田庄(多古町)に多くの寺領や信徒を擁していたことが知られる。 また、室町・戦国時代には山下に真間宿または市川両宿といわれる門前町が発展し、賑わいをみせ ていた。

天正19年(1591)、徳川家康より朱印地30石を与えられ、元禄8年(1695)には水戸 光圀も来訪したと言われる。

江戸時代は紅葉の名所として知られ、諸書に真間山弘法寺の紅葉狩りのことが記されているが、明 治21年(1888)の火災のため諸堂は焼失してしまった。その後明治23年(1890)に再 建され、現在に至っている。

境内には、日蓮の真刻と伝える大黒天をまつる太刀大黒尊堂、水戸光圀が賞賛して名付けたといわ れる遍覧亭、袴越の鐘楼、仁王門、伏姫桜とよばれる枝垂桜があり、小林一茶、水原秋桜子、富安 風生などの句碑がある。

市川市教育委員会


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