鎌倉五山 円覚寺(えんがくじ) Engakuji Temple 天空仙人の神社仏閣めぐり
鎌倉五山
建長寺| 円覚寺| 寿福寺| 浄智寺| 浄妙寺 |
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「山門」 | 「国宝 舎利殿」 |
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SAN-MON | SHARI-DEN |
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「居士林」 | 「勅使門」 |
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KOJI-RIN | CHOKUSHI-MON |
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「仏日庵」 | 「続燈庵」 |
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BUTSUNICHI-AN | ZOKUTO-AN |
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「妙香池」 | 「百観音」 |
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MYOKO-IKE | HYAKU-KANNON |
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「にほひ袋 うさぎ」 | 「にほひ袋 姫だるま」 |
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USAGI | HIME-DARUMA |
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神奈川県鎌倉市山ノ内409
409,Yamanouchi,Kamakura-Shi,Kanagawa
円覚寺略縁起 瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんだいえんがくこうしょうぜんじ) わが国はおおよそ700年前、文永・弘安の二度にわたる蒙古軍の来襲という空前の国難を迎えた。 時の執権(しっけん)北条時宗公はかねてより深く禅に帰依し、弘安の役のさなかにも、 中国から招いた無学祖元(むがくそげん)(仏光国師)を師として、日夜参禅に励んでいた。 国を挙げてこの難敵に当たり、蒙古の大軍を撃退した時宗は、文永・弘安両役に殉じた彼此(ひし)両軍死者の菩提を弔い、 己の精神的支柱となった禅道を弘めたいと願い、且つその師仏光国師への報恩の念から円覚寺の建立を発願した。 「円覚」の寺号は寺地選定の後、この地から石櫃(せきひつ)に入った円覚経を掘り出したことによるといわれている。 開山の法灯は高峰顕日(こうほうけんにち)(那須雲巌寺)、夢窓疎石(むそうそせき)(天龍寺)と次第し、世に「仏光派」と称された。 殊に夢窓は南北朝「七朝の帝師」といわれ、その門流は室町時代にわが国禅界の中心的勢力を形成した。 数度の大火に遭い、衰微したこともあったが、江戸末期に中興の誠拙和尚が出て、伽藍を復興し、 現今の円覚寺の基礎を固め、修行者に対して峻厳をもってし、宗風の刷新を図った。 明治には今北洪川・釈宗演の師弟のもとに雲衲(うんのう)や居士が参禅し、関東禅界の中心となった。 居士林における学生坐禅会は古い歴史を誇り、秀れた人材を打ち出した。 首都圏各地からの交通の便に恵まれ、静かな境致と相俟って、各種の坐禅会・夏期講座など多くの人々に親しまれ。 「心の寺・円覚寺」と呼ばれ、訪れる人々に深い心の安らぎを与えている。 山内に十八ケ寺の塔頭(支院)があり、近末には浄智寺・東経寺・瑞泉寺がある。
境内案内 山門 天明三年(1783年)当山中興の大用国師誠拙和尚が再建。楼上に観世音菩薩・羅漢が安置されている。 「円覚興聖禅寺」の額は伏見上皇の勅筆。円覚の寺号はこの地中より「円覚経」が出たことに由来する。 仏殿 本尊は宝冠釈迦如来。昭和三十九年に再建された。 天井に前田青邨監修、守屋多々志揮毫の白龍の図がある。大光明宝殿。 選仏場 仏を選び出す堂宇のことで、元の坐禅道場。1699年に建立。 居士林 禅を志す在家のための坐禅道場、もと牛込にあった柳生流の剣道場を、 昭和三年柳生徹心居士より寄進され移築した。 方丈 「方丈」の名は、インドの維摩居士の居室が一丈四方であったことに由来する。 本来は住職の居間であるが、多くの宗教行事がここで行われる。 百観音 江戸時代、拙叟尊者が百体の観音石像を奉安し、洪川老師の明治時代に整備され、 震災後も一山をあげて復興につとめた。 元は塔頭松嶺院の地内にあったが、今回方丈の庭園に移された。 舎利殿(国宝) 源実朝が宋の能仁寺から請来した仏牙舎利を奉安する堂宇。 鎌倉時代に中国から伝えられた「唐(から)様式」を代表し、その最も美しい建造物として国宝に指定されている。 開基廟 開基北条時宗のみたまや。堂内に時宗・貞時・高時の尊像が安置されている。 白鹿洞 当山の落慶開堂の日、開山国師の法莚に列するために、この洞中より一群の白鹿が現れたという。 この奇瑞によって当寺の山号を「瑞鹿山」という。 黄梅院 時宗夫人の覚山尼が時宗の菩提のために建立した華厳塔の地に、後に足利氏が夢窓国師の塔所として建立した。 室町時代に盛んであり、古文書なども多い。 洪鐘(国宝) 1301年北条貞時が国家の安泰を祈って寄進。鎌倉時代の代表的な梵鐘である。
円覚寺案内 当山は、臨済宗円覚寺派の大本山にして弘安五年(1282)の開創。 開山は中国(宋)より渡来の仏光国師無学祖元。開基は鎌倉暮府の執権北条時宗公。 国師は時宗公の熱心な招請に接し弘安二年来朝。 初め建長寺に住し、時宗公はじめ鎌倉の武将を教化し、多くの門弟を育てた。 時宗公は弘安四年再度の蒙古の来襲を撃滅した後翌五年正法を興隆し、師恩に報じ、 また文永・弘安の両役に戦死した敵味方両軍の菩提を弔うために当山を建立した。 国師の流派を世に仏光派と称し、弟子に仏国国師、孫弟子に夢窓国師が出て、室町時代には国師の法孫は天下に満ち、五山の学僧の主流となった。 江戸時代やや衰微していたが、江戸末期に中興誠拙禅師が出、 明治に至って今北洪川、釈宗演の二大禅師出世され再び関東禅界の中心となり、禅風を門外に宣揚した。
私たちがこうして、今生きているということは、そこに仏様がいらっしゃるということなのであります。 それが何よりも尊いものであります。 その事実がどれだけ素晴らしいことであるか、心の底から感動して気づくことが大切です。 そのように本当の自分に目覚めて、各自それぞれが、それぞれの生活の中で明るく楽しく生きることが、 私たちの禅の教えであります。 円覚寺(えんがくじ) 円覚寺は弘安5年(1282年)に創建されました。開基は元寇の役に活躍した鎌倉幕府の執権北条時宗、 開山は宋から来朝した高僧 無学祖元(仏光国師)です。 円覚寺創建の主な目的は蒙古襲来で戦没した多くの霊を敵味方なく弔うことでした。 無学祖元 仏光国師(むがくそげん ぶっこうこくし) 無学祖元禅師(1226〜86)は、中国に生まれ12才で出家して修行に励んだ後、 かねてより深く禅宗に帰依していた北条時宗に招かれ元寇の真只中に来朝し、初めは建長寺住持となりました。 心の寺 円覚寺は数度の大火に遭い、衰微したこともありましたが、江戸末期の誠拙和尚が出て伽藍を復興し、 現在の円覚寺の基礎を固められ、明治になると今北洪川・釈宗演のもとに多くの雲水や居士が参禅して 関東禅会の中心となり、今も僧堂・各種の坐禅会や夏期講座などに引き継がれ、 多くの人々に親しまれ「心の寺」と呼ばれています。 舎利殿(国宝) 源実朝が宋の能仁寺から請来した仏牙舎利を奉安する堂宇で鎌倉時代に中国から伝えられた「唐(から)様式」を代表し、 その最も美しい建造物として国宝に指定されています。 仏殿 円覚寺の本尊様である宝冠釈迦如来をお祀りしてある建物で、関東大震災で倒壊しましたが、 昭和39年に再建されました。 開基廟 円覚寺の開基である北条時宗公をおまつりしてあります。 現在の開基廟は江戸時代文化8年(1811年)に改築されたものとされています。 山門 天明5年(1785年)円覚寺中興・大用国師誠拙周樗禅師の時、再建。 「円覚寺興聖禅寺」の額字は伏見上皇の勅筆。 楼上には十一面観音、十六羅漢像などを安置する。 正続院 開山仏光国師無学祖元禅師の塔所。禅師は北条時宗公の招請で弘安5年に当山を創建。 現在は専門道場として修行の場となっている。 居士林 在家修行者のための専門道場です。「居士」とは一般在家の禅の修行者を指します。 広く一般の方に向けて各種坐禅会が催されています。 方丈 本来は住職の居間ですが、現在は各種法要、坐禅会や説教、夏期講座などの講習会や秋の宝物風入れなど、 多目的に使われています。 国宝・洪鐘(おおがね) 北条貞時公が、江ノ島弁財天に参籠し、天下泰平、万民和楽を祈り、正安3年(1301年)に鋳造されました。 弁天堂 江ノ島より招来した弁財天をまつり、60年ごとに江ノ島の弁財天と当山との間で祭礼が盛大にとり行われています。 |
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