恵林寺(えりんじ)      Erinji Temple         天空仙人の神社仏閣めぐり

恵林寺 Official Page

妙心寺圓通寺平林寺

恵林寺 総門 写真 恵林寺 写真
「総門」
Soumon
拡大 画像Click拡大 画像Click

恵林寺 四脚門 写真 恵林寺 三解脱門 写真
「四脚門」「三解脱門」
Shikyaku-monSan-gedatsu-mon
拡大 画像Click拡大 画像Click

恵林寺 開山堂 法堂 写真 恵林寺 仏舎利宝塔 写真
「開山堂 法堂」「仏舎利宝塔」
KaisandoBushari-houto
拡大 画像Click拡大 画像Click

恵林寺 庫裏 写真 恵林寺 写真
「庫裏」
Kuri
拡大 画像Click拡大 画像Click

恵林寺 風林火山 写真 恵林寺 武田菱 写真
「風林火山」「武田菱」
Fuurin-KazanTakeda-Bishi
拡大 画像Click拡大 画像Click

恵林寺 恵林寺庭園 写真 恵林寺 恵林寺庭園 写真
「恵林寺庭園」「恵林寺庭園」
TeienTeien
拡大 画像Click拡大 画像Click

恵林寺 恵林寺庭園 写真 恵林寺 信玄公訓言 写真
「恵林寺庭園」「信玄公訓言」
TeienShingen-ko Kungen
拡大 画像Click拡大 画像Click

恵林寺 滅却心頭火自涼 写真 恵林寺 安禅不必須山水 写真
「滅却心頭火自涼」「安禅不必須山水」
拡大 画像Click拡大 画像Click

恵林寺 雷神 写真 恵林寺 風神 写真
「雷神」「風神」
FuujinRaijin
拡大 画像Click拡大 画像Click

恵林寺(えりんじ)

Erinji Temple

山梨県甲州市塩山小屋敷2280

2280,Koyashiki,Enzan,Koshu-shi,Yamanashi


乾徳山 恵林寺

臨済宗妙心寺派の名刹で、元徳2年(1330)の創建。往古は、鎌倉、円覚寺派で関東準十刹の寺格を有す。 元徳2年当時甲斐牧ノ庄と称した当地地頭職(領主)二階堂出羽守貞藤(道蘊)が、 七朝帝師と尊称された夢窓国師を招き自邸を禅院としたのに始まる。 戦国時代武田信玄の尊崇を受けた快川国師の入山で寺勢を高め、永禄7年(1564)信玄自ら寺領寄進し当山を菩提寺と定めた。 境内には本堂、庫裡、開山堂、赤門(重文)、三重塔がならび巨刹らしい雰囲気である。 三門に掲げられた快川国師の「安禅不必須山水、滅却心頭火自涼」は有名。 また境内の信玄公宝物館には、武田氏関係の貴重な資料を常時公開。

山梨県・塩山市

案内板より


乾徳山 恵林禅寺の沿革

当山は臨済宗妙心寺派。往古は鎌倉円覚寺派で関東準十刹の寺格を有す。

草創は鎌倉時代末期の元徳2年(西暦1330)当時甲斐牧ノ庄と称した。 当地地頭職(領主)二階堂出羽守貞藤(道蘊)が七朝帝師と尊称された夢窓国師を招き自邸を禅院としたのに始まる。

越えて戦国時代、甲斐国主、武田信玄の尊崇を受けた快川国師(紹喜)の入山で寺勢を高め永禄7年(1564)、 信玄は自らの手で寺領寄進と共に当山を菩提寺と定める。

天正4年(1576)4月武田勝頼は父信玄の3年の秘喪をとき盛大な葬儀を厳修する。 天正10年(1582)3月、勝頼は時勢に抗せず天目山下に自刃、甲斐武田氏は滅亡する。

同4月3日織田信長軍の兵火に遭い当山は諸堂宇を灰燼に帰する中で、 快川国師は「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火自ずから涼し」と遺偈、従容として火定する。

本能寺の変後、徳川家康の手により旧観に復し、 また徳川五代綱吉時代甲斐国主となった柳沢美濃守吉保、同甲斐守吉里父子の外護で寺運は発展吉保夫妻の菩提寺ともなる。

庭園は鎌倉時代の作庭で国の史跡・名勝に指定されており、甲府八景「恵林晩鐘」に詠まれている。


◇乾徳山 恵林寺

恵林寺は1330年、夢窓国師によって開かれ、戦国武将・武田信玄が菩提寺と定めた臨済宗妙心寺派の古刹である。

夢窓国師は伊勢の生まれで、甲斐へ移り住み九歳で出家。当時の領主、二階堂道蘊に請われ邸宅を禅院に改めたのが恵林寺の始まり、国師55歳の頃であった。

◇四脚門<国重要文化財>

黒門を入り参道を上がると四脚門(赤門)が現れる。この赤門は織田信長により全山焼かれた後、 徳川家康によって再建されたもので、1606年の棟札が掲げられ国の重要文化財に指定されている。

◇三門<県文化財>

「安禅不必須山水滅却心頭火自涼」という快川和尚の遺偈が掛けられている門が、県の文化財に指定される三門である。

武田氏を滅ぼした織田軍は恵林寺に押し寄せ、潜伏保護されていた者達を引き渡すよう快川和尚に命じたが拒否され、怒った信長が三門に快川和尚はじめ約百人の僧侶らを封じ込め火を放った。

天正十年(1582年)快川和尚、壮絶な火定を遂げた際の一句である。

◇開山堂

三つの門を潜ると、正面に鋒える開山堂がある。堂内には、夢窓国師、快川和尚、末宗和尚の三像が安置されている。

末宗和尚は快川国師の弟子で、三門焼き討ちの際、快川和尚の命を奉じて火を逃れた僧で、 那須の雲巌寺に潜み、後に徳川家康に命ぜられ恵林寺の再興にあたった僧である。

家康再建の後は、五代将軍綱吉の側近となる柳沢吉保が、信玄の法要を行うと共に寺内の修復をはかっている。 柳沢家は吉保の子である吉里の代に吉保夫妻の墓を永慶寺より恵林寺に改葬した。 寺内には、正室定子の墓塔と共に今も静かに並んで眠っている。

◇武田不動尊

本堂に入り、うぐいす廊下を抜けると、明王殿に武田不動尊が安置されている。 比叡山より大僧正の位を受けた際、記念像として京都より仏師の斉藤康清を招き、対面で模刻させたという等身大の不動明王である。 信玄生前の制作であることから、信玄生不動とも呼ばれる。信玄31歳であった。

臨済宗妙心寺派  乾徳山恵林寺

〒404-O053

山梨県甲州市塩山小屋敷2280

TEL 0553-33-3011

FAX 0553-33-3182

◇武田晴信(信玄)の墓

明王殿の裏に信玄の墓がある。1521年生まれ。

16歳の時、晴信と名乗り39歳で出家し信玄(僧名)と号す。 1573年4月12日、53歳にて病死、後に快川和尚の導師により恵林寺で葬儀が行われており、 現在でも、恵林寺では4月12日に信玄忌として毎年供養が行われている。 信玄の墓の後ろには武田家臣の供養塔が約七十基並んでいる。

◇恵林寺庭園<国指定名勝>

本堂の裏側には夢窓国師築庭の池泉回遊式庭園が広がっている。 上段に枯山水、下段には心字池を配した雄大な規模を誇る名園であり、昭和17年に国指定の名勝となる。 国師はこの恵林寺庭園作庭の後に、西芳寺(苔寺)、天龍寺の庭も手掛けることになる。 寂寞な中にも流れを許すその姿は、この現代においても、安らかなる禅の風光そのままとして現れている。

恵林寺 しおり より


武田信玄

信玄は俗名を晴信といい清和源氏の新羅三郎義光の子孫信虎の嫡子として大永元年11月3日石水寺城に生まれた。 幼少より禅僧に学び、後に快川を師と仰いだ。又好んで六韜三略、孫子、呉子等の兵法を学んだ。 16才の時元服して大膳大夫、従五位下に叙せられた。 甲信両国の太守として早くから天下制覇の大志を抱き川中島5度の大合戦の後、 北条と和し、越前の朝倉、近江の浅井や本願寺と結び足利義昭の意をうけて 元亀3年3万の大軍を率いて上洛の途につき三方ヶ原に織田、徳川の連合軍を破り更に三河の野田城を陥れて宿願成らんとした時、 病を得て帰国の途中信州駒場で死去した。

信玄は稀にみる軍略家であり又外交家、民政家でもあった。仏教にも深く帰依し徳栄軒と号し大僧正の位をうけた。


武田信玄公訓言

凡そ、軍勝五分を以て上と為し、七分を中となし、十分を以て下と為す。 その故は、五分は励を生し、七分は怠を生し、十分は驕をするが故、 たとえ戦に十分の勝を得るとも驕を生すれば次には必ず敗るるものなり。 すべて戦に限らず世の中の事、此の心がけ肝要奈利。

境内 石碑より


重要文化財 恵林寺四脚門 明治40年8月28日指定

丹塗りの門であるところから通称「赤門」と呼ばれている、 切妻造り、檜皮葺きで、本柱、控柱ともに円柱を用い、柱には粽形が付けられ、柱下には石造礎盤が置かれている。 中通しの本柱は控柱より太く大きく、これを桁行に通した頭貫で繋ぎ、 その上に台輸を架し大科・枠・肘木・実肘木を組み、軒先を海老紅梁で繋いでいる。

このように極めて簡単な構架ではあるが、全体に木割りが大きく、その意匠は雄大であり、桃山期の豪放な気風をよく現わしている。


山梨県指定文化財 恵林寺三門 附棟札一枚 昭和60年3月19日指定

構造は、一門一戸、楼門形式、この門を「三門」と称するのは、仏殿前に位置し仏殿を法空・涅槃に擬し、 そこへ入る端緒たる三解脱すなわち空門・無相門・無願門の意による三解脱門の略で、 快川国師が織田軍の兵火で焼討ちを受けた折、「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火自ら涼し」と唱えて火定した場所に建つ。

四本の隅通し柱は、階下が角柱造り、階上部分を円柱造りとする技巧を凝らし、 実肘木・板肘木・木鼻などに見られる渦巻状の絵様は室町末期から桃山期にかけての名作技法である。 小規模ながら総体的に溢れる重厚・荘厳さは、同時代の建造物の中でも逸品とされている。


山梨県指定 史跡                   

武田信玄の墓

                          昭和33年6月11日 指定

武田晴信(信玄)は武田信虎の長男で、大永元年(1521)の出生。 天文十年(1541)二十一歳で家督を継ぎ、甲斐国主となる。 性格武勇沈着、こよなく家臣団・領民を愛する戦国時代の代表的な武将であった。

元亀四年(天正元年・1573)四月十二日、病のため信州・駒場の陣中で五十三歳で没した。 その十年前、永禄七年(1564)十二月一日、時の恵林寺住持快川和尚に宛てた「恵林寺領之事」の証文の中で、 信玄自ら恵林寺を菩提寺と定めていたため、三年間の秘喪の後、天正四年(1576)四月に勝頼が施主となって本葬が執行された。

「恵林寺殿機山玄公」と諡名される。このときの仏事一切について、快川国師が「天正玄公仏事法語」(県指定文化財)に記録している。

現在の墓は信玄霊廟「明王殿」裏手に配置し、聖域と称される。面積184.8平方メートル。 ここに全高349.6センチの五輪塔一基、全高369.6センチの宝篋印塔一基が建立されている。

この宝篋印塔の反花台座(基礎)裏側の銘文と、寺に保存されている「恵林寺奉加帳」(市指定文化財)により、 五輪塔・宝篋印塔ともに寛文十二年(1672)四月十二日、信玄公百回忌が厳修された際に、 恵林寺住持持荊山玄紹が武田家の遠孫・旧臣子孫529人の浄財を得て建立したものであることが判る。

  平成十四年十二月                       山梨県教育委員会

境内 案内板より


ホーム神社・仏閣めぐり初詣おすすめスポット御利益別寺社一覧御利益グッズ言い伝え


Copyright © 2007 I.HATADA All rights reserved.

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送