京都 源光庵(げんこうあん)    Genkoan Temple  天空仙人の神社仏閣めぐり

庭園

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源光庵 石條 源光庵
「石條」

源光庵 源光庵 悟りの窓
「本堂」
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源光庵 悟りの窓 源光庵 迷いの窓
「悟りの窓」「迷いの窓」
SATORI NO MADOMAYOI NO MADO
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源光庵 庭園 源光庵 庭園
「庭園」「庭園」
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源光庵 血天井 源光庵
「血天井」

源光庵(げんこうあん)

Genkoan Temple

京都市北区鷹峯北鷹峯町47

47,Takagamine-Kitatakagamine-Cho,Kita-Ku,Kyoto


由緒並びに縁起

鷹峯山宝樹林源光庵と号し、今より六百五十余年前の貞和2年(1346)、臨済宗大本 山大徳寺二代徹翁国師の開創によるものであるが、元禄7年(1694)加賀国大乗寺二 十七代曹洞宗復古道人卍山(まんじさん)道白禅師が当寺に住持せられ、これより曹洞宗 に改まったのである。

現在の本堂は元禄7年の創建で、間口11間半(21m)奥行7間(13m)加賀の住人 静家居士の建立による。

本尊は釈迦牟尼仏、脇立迦葉尊者、阿難尊者を祀る。復古堂には開山卍山禅師の木像を安 置し、その下に舎利を収む。

卍山禅師は学徳兼備の高僧で、曹洞宗道元禅師の正伝の仏法に復古された。

発願より42星霜の歳月を経て成就されたのである。

黄檗山鉄眼禅師の大蔵経刻版、東大寺公慶上人の大仏殿建立と共に、その事業の功績は三 者並び称せらる。

本堂西安置の霊芝観世音は、開山禅師が天和元年(1681)の春、洛南補陀落山に於い て御感得の霊芝自然の観音像であり、百十一代後西天皇は殊の外尊崇篤く、宮中で御供養 遊ばされたもので、世に広く信仰され、開運霊芝観世音と唱う。

境内には、宗統復古碑があり、又、道元禅師ご真筆の書画及び卍山廣録・宗統復古志・鷹 峰聯邦系譜等の木版を保存している。

本堂内の血天井は伏見桃山城の遺物であり、慶長5年(1600)、徳川家康の忠臣鳥居 彦右衛門元忠一党1800人が石田三成軍勢と交戦したが、武運拙く討死し、残る380 人が自刃して相果てたときの恨跡である。

また、本堂には悟りの窓と名付けられた丸窓と、迷いの窓という角窓がある。

悟りの窓は円型に「禅と円通」の心を表し、角窓は人間の一生を象徴して「生老病死四苦 八苦」を表している。

西の谷の稚児井は六百五十余年前よりの伝説あり。多くの人々を 水飢饉より救ったと伝えらる。

源光庵 しおりより


源光庵

源光庵(げんこうあん)鷹峯山(ようほうさん)と号する曹洞宗の寺である。

貞和(じょうわ)二年(1346)に大徳寺の第二世・徹翁義亨(てつをうぎこう)によ って創建され、当初は臨済宗に属していたが、元禄七年(1694)、加賀国(現在の石 川県)大乗寺の卍山道白(まんざんどうはく)禅師により再興され曹洞宗に改められた。

本堂には、本尊釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)及び霊芝観世音像(れいしかんぜおんぞう )を祀っている。本堂から庭園を望む壁面には、「悟りの窓」という丸窓と「迷いの窓」 という角窓が並び、前者は「禅と円通」の心、すなわち何事にもとらわれない、おおらか な境地や大宇宙を、後者は「人間の生涯」、生老病死の四苦八苦を象徴しているといわれ 、いずれも仏教の真理を表している。また、廊下の天井は、もと伏見城の床板で、慶長五 年(1600)の落城の際、徳川家康の忠臣・鳥居元忠(とりいもとただ)らが自刃(じ じん)した時の血痕が残っているものを、供養のためにここに移したもので、血天井とし て知られている。

境内裏の「稚児井(ちごのい)」は、創建されたころ、水に窮した徹翁が、童子に教えら れて得たもので、多くの人を救ったと伝えられている。 

京都市 駒札より


伏見桃山城遺構血天井

  豊臣秀吉(慶長3年没)の死後、徳川家康は既に所領250万石、家康は天下の権を握っ たも同様であった。慶長4年3月13日、家康は伏見桃山城に入った。ところが陸奥、会 津若松にあって150万石をうけていた五大老の一人である上杉景勝が叛すとの情報が入 り注進をうけた家康は慶長5年(1600)6月16日伏見城を出て会津へ向かった。こ のとき伏見城本丸に鳥居彦右衛門元忠、二ノ丸松平主殿頭家忠、松ノ丸に内藤弥次右衛門 家長を留守居とした。

家康は元忠に、「わずかばかりの兵を残して行くが、伏見は要衝であるから頼むぞ」と云 えば、元忠は「会津はなかなかの強敵です、一人でも多くの兵を行かれた方がよろしいと 思います。伏見は私一人で結構です。もし伏見で変があっても誰も助けてはくれますまい。 たとえ何万の兵を残されても結局は同じことです。」と云い「もし会津出兵中に変事がな ければまたお顔を拝することが出来ましょう。しかし、事あればこれが永遠のお別れです。 」この言葉が事実となってあらわれたのは、家康が江戸へ入り軍勢を整えていたときであ った。

7月18日、伏見城守護の元忠のもとへ石田三成、増田長盛らが使者を立て、「伏見の城 は太閤が築かれたもので徳川のものではない。早く城を出て大阪の秀頼へ忠をつくされて は如何」と申し入れてきた。家康が江戸へ入ったのを見届けると三成は罪状十三ヶ条(家 康は太閤の遺言にそむき秀頼をみすて政務を独裁している)を並べ諸方に奮起をうながし ていた。集まる兵力9万3700余、家康をむかえうつ拠点として血祭りに伏見開城を迫 ったのである。

元忠は「主君家康公は、会津へ出発の折り、固く城を守るべしと言い残しておかれた。ど うして主君の命にそむけよう、かくなる上は城を枕に討ち死にする以外にない。」と拒絶 した。これを聞くや翌19日夕刻、三成に加担する兵4万がひしひしと伏見城を包囲した。 城兵わずかに1800人を数えるのみであった。

伏見城の攻略は10日余り続いた。7月末の夜ついに忍びの甲賀の者、内通し松ノ丸に火 を放った。これに勢いを得た寄手(よせて)がどっと乱入。内藤家長55歳をもって戦死。 松平家忠も45歳を一期に散り、部下将卆すべて切腹した。鳥居元忠戦い疲れて本丸玄関 に腰をかけ息つぐところへ雑賀孫市(秀吉直属の鉄砲頭)が死体をふみ超え肉薄。これを みた元忠は「われは総大将鳥居彦右衛門なり、首を取って功名にせよ。」と叫び自ら腹を かき切った。ときに元忠62歳、ともに討ち死にした部下380人と云われる。

なお鳥居元忠の首は、大阪京橋口にさらされたが、元忠と交わりのあった京の呉服商佐野 四郎右衛門が「さらし首とはあまりにむごい」と夜半に盗み出し智恩寺の墓に葬ったと云 われる。

現在血の染まった天井は討ち死にした兵士の残せるもので床板を天井としたものである。 その血板は本堂全域の天井にわたるが数と処に於て鮮明な足型、手型等の血跡があり、当 時の悲惨さを物語っている。

当寺は開山卍山禅師と徳川家との密接な関係により、当寺本堂再建の際、伏見桃山城の床 板の一部を移したもので、これら諸兵の菩提を弔って居り、現在文化財として維持してい る。

禅曹洞宗別格地

鷹峰山 源光庵

堂内 説明板より


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