防府天満宮   HOUFU TENMANGU SHRINE   16.NOV.2001    神社仏閣めぐり

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「防府天満宮」

「楼門」

HOUFU TENMANGU SHRINE

ROMON

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「門帳」

「扁額」

MONCHOHENGAKU
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「注連縄」

「扶桑菅廟最初」

SHIME-NAWA
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「神牛」

「提灯」

SHINGYUCHOCHIN
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「春風楼」

「春風楼からの眺め」

SHUNPUROSHUNPURO
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「絵馬」

「絵馬」

EMAEMA

防府天満宮

HOUFU TENMANGU SHRINE

山口県防府市松崎町14番1号

14-1,MATSUZAKI-CHO,HOFU-SHI,YAMAGUCHI

TEL 0835-23-7700


御祭神および由緒

当社は菅原道真公を始め公の御祖先である天穂日命・武夷鳥命・野見宿禰の四柱が

奉祀してあります。

 道真公は御父を是善公と申され御母は大伴氏で仁明天皇の承和12年(845)

乙丑6月25日京都の菅原院で御生誕。幼名を「阿呼」または「吉祥丸」と申され

後の人はその徳を敬慕して「菅公」と称え、古くから文教の祖神として広く敬仰されて

参りました。

菅公は幼少より文学に秀でられ、御年僅か5才の時、庭の梅花を見て

     美しや紅の色なる梅の花

        あこが顔にもつけたくぞある

            と詠まれました。

また11才の時最初の詩 月夜見梅花を作られ、18才で文章生となり、23才で

文章得業生に選ばれ、さらに26才で対策に及第せられ、33才で文章博士等、

学識愈々高まり誠直な政見によって、時の帝の親任篤く次第に高位高官に昇り、

遂に55才の時右大臣兼右近衛大将に任じられ当代随一の学徳をもって政務を

担当されましたが、延喜元年正月25日(菅公57才の時)藤原氏の讒言により

俄かに太宰権帥に左遷せられ九州に下向されることになり、

同年2月紅梅殿の邸を発たれる時、

   東風吹かば匂ひおこせよ梅の花

     主なしとて 春な忘れそ

と庭前の梅花に別れを告げられたことは余りにも有名であります。

西下の途中、時の周防の国司土師信貞は公と同族であったので船を

当地勝間の浦におつけになり、暫く国司の館に御滞在になりました。

公は酒垂山にお登りになり、山秀水麗の勝景を深く愛でられ、

  ”身は筑紫にて果つるとも、魂魄は必ず此の地に帰り来らん”と

お誓いになり、家宝の金の鮎を12尾国司に託して淋しく旅立たれました。

延喜3年(903)2月25日、勝間の浦に神光が現れ、酒垂山に瑞雲が

棚引き人々を驚かせました。国司は公の異変を感じ、直ちに使を九州に

遣わして公の安否を伺わしめたところ、丁度その日が公の薨去の日と

わかりました。そこで国司は早速館に公の御霊をお祀りし、

翌延喜4年8月今の松崎の地に宝殿を建立して松崎の社と号しました。

菅公をお祀りしたお社は日本全国津々浦々に至るまで約1万2千社もありますが、

当社の創建をもって日本最古(扶桑菅廟最初)とし、北野天満宮(京都市)

太宰府天満宮(太宰府市)と共に日本三天神と称せられております。

防府天満宮略記より



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