常陸一ノ宮 鹿島神宮(かしま じんぐう)    Kashima Jingu Shrine   天空仙人の神社仏閣めぐり

鹿島神宮 Official Page
鹿島神宮 楼門 写真 鹿島神宮 拝殿 写真
「楼門」「拝殿」
TOWER GATEHAIDEN

鹿島神宮 要石 写真 鹿島神宮 絵馬 写真
「要石」「絵馬」
KANAME ISHI STONEEMA

鹿島神宮 絵馬 写真
「絵馬」
HITACHI OBI

鹿島神宮 武道守り 写真 鹿島神宮 勝守り 写真
「武道守り」「勝守り」
BUDOH MAMORIKACHI MAMORI

鹿島神宮(かしま じんぐう)

Kashima Jingu Shrine

茨城県鹿嶋市宮中2306−1

2306-1,Kyuchu,Kashima-Shi,Ibaraki

JR鹿島線鹿島神宮駅から徒歩約10分


御祭神 武甕槌大神

創祀

神武天皇御即位の年に神恩感謝の意をもって神武天皇が使を遣わして勅祭されたと伝える

御神徳

神代の昔 天照大御神の命により国家統一の大業を果たされ建国功労の神と称え奉る

また 霊剣の偉徳により武道 の祖神 決断力の神と仰がれ関東の開拓により農漁業商工殖産の守護神として仰がれる外常陸帯の 古例により縁結び安産の神様として著名である 更に鹿島立ちの言葉が示すように交通安全 旅行 安泰の御神徳が古代から受け継がれている

境内 案内板より


UNTICTIONARY

鹿島神宮は皇紀元年(紀元前660)の創建と伝えられ、東国三社の一つにも数えられる名社です。 祭神は香取神宮の経津主神(ふつぬしのかみ)とともに、天孫降臨に先立ち国譲りの交渉をしたと 言われる武甕槌神(たてみかづちのかみ)。

武の神として古くから皇室や藤原氏の崇敬を受け、さらに鎌倉期以降は武家政権の信仰をも得て、 社殿・楼門・宝物類の奉納や所領寄進が繰り返されてきました。

80以上もある年中行事の中では祭頭祭、神幸祭、また12年に1度午年ごとに行われる御船祭が 特に有名です。

なお、本殿が北向きに建てられているのは武神の霊力を蝦夷の住む東北地方に及ぼすため。


According to legend,Kashima Jingu Shrine,one of the major shrines in Kanto area, was erected in 660 B.C.E.,the first year of the Imperial reign.

The god defined at this shrine is Takemikaduchi no Kami. It is said that he is the god who negotiated with other gods to obtain this country for the Sun Goddess before her descent.In ancient days Takemikaduchi no Kami was worshiped as a good of warriors by the imperial family and the Fujiwara clan.

Beginning in the Kamakura period,military goverments that respected shrine donated things such as shrine buildings,the tower gate,and treasures.

More than eighty annual events are held here. Among these,the Saito Festival, the Jinko Festival,and the Ofuna(sacred boat)Festival held every twelve years are particularly well-known.

鹿嶋市観光ガイドマップより


鹿島神宮

いま行われている祭頭祭

毎年三月九日に行われる祭頭祭は、年間八十回数える、鹿島神宮の行事の中で、最も規模が大きく、 勇壮な祭典です。午前十時、昨年の春季祭で当番に卜定した左方右方両字の大総督が狩衣姿で家族 役員に護られながら昇殿し、祭頭祭が厳そかに執行されます。

この祭頭祭は出陣の祭ともいわれ、防人に選ばれた東国のつわ者達が、奈良平安の昔に九州の筑紫 ・壱岐・対馬の防備に旅立つ姿を今に伝えるものです。

祭頭祭が終ると、大総督はじめ両字の人々は本陣に定めた旅館等へ引上け、昼食をとって休憩した 後、午後一時頃から参道で祭頭囃を囃しはじめます。

人数は奉仕字の大小によって多少違いますが、150名から300名位で、役員は陣笠、羽織袴、 職人は色鮮かな祭衣、華やぁな襷を数本背にかけて、二メートルばかりの樫の棒を持ち、太鼓の音 に合せて、棒を組んではほごし、組んではほごしながら、囃歌を唱って進みます。

 一隊十五名ばかりが円陣を組み、この隊が七組から十数組と列なり、バレン振り、太鼓叩きのリ ズムによって円舞する姿は勇壮活発で、見ていて楽しいものです。この囃の姿は、防人が任期を終 えて帰って来る姿と見られ、祭衣は大陸風の脇の割れ衣装であり、手にした棒は武器で、江戸時代 までは刀を持って囃した姿も見られます。

無事に帰った姿を見せるわけですから、棒を持つ手にも力が入ります。こうして囃しながら少しづ つ前進し、鳥居をくぐつて楼門の中に入り、御社殿の前で最も力強く囃立てて終ります。これがが いせんの神事です。

大総督は常に囃の先頭に立ち、町役員に誘導されて進みますが、甲冑姿の五才位のりりしい武者振 りには、見物人から喝采がわき上ります。

こうして囃し終るとまた本陣に戻り、午後六時の春季祭に再び狩衣で参列します。この春季祭が卜 定の神事で、神卜によって来年の当番二字が決まり、物申神職は拝殿に立って「来る平成○○年春 季祭当番、神慮を以てト定候事、左右方の大頭、大字○○」と大音声に読み上げます。この当番卜 定より1年間かけて準備をし大字が、来年の三月九日に囃すのです。


祭頭祭の歴史

天智天皇二年(西暦662)に日本の水軍が唐の大軍に敗れて以来、大陸からの侵攻に備同3年よ り対馬島・壱岐島・筑紫国に置かれた兵士を防人といい、約130年にわたって辺境の防備に就い た。始めは全国から徴募されたが、関東勢か勇武とあって、後には関東から徴募された。

この防人達が武運の長久と道中の平安を鹿島神宮に祈って旅立ったため、鹿島立ちの言葉が起こる。

防人は3年の任期で毎年2月1日を交替日として約千人が交替した。任期を終って帰国する防人た ちは、珍しい大陸風の服を土産に身にまとい、武器を高々と掲げて鹿島に帰着したが、延暦14年 (795)の防人制廃止にともなって、鹿島の氏人によってその姿が引継がれて祭頭祭になったと 思われる。

祭頭の語言も、防人びとの祭、或いは中世四月に行っていて、四月祭の頭役から起ったともいわれ ている。

中世は境内の中の神宮寺・護国院の常楽会と結びついて仏教色を帯びため、現在でも仏教色の残る 神事である。祭頭の当番は鹿島神宮の氏子の大字を南北に分け、南北各20数字が左方右方を交替 に奉仕する。


  鹿島神宮祭頭歌

弥発生鹿島の豊竹豊穂良豊穂弥

礼豊穂善豊穂弥アアヤレソラ御社楽豊穂良豊穂弥発生

イヤーホエ鹿鳥の豊竹トホヨトヤ

イヤートホヨトヤアヽヤレソラ御社楽目出度いイヤーホエ

イヤーホエ若者揃ふたよトホヨトヤ

イヤートホヨトヤアヽヤレソラ太鼓に合せてイヤーホエ

イヤーホエ宮山参りはトホヨトヤ

イヤートホヨトヤアヽヤレソラ氏子の喜びイヤーホエ

イヤーホエ田作り人等はトホヨトヤ

イヤーホヨトヤアヽヤレソラ御国の礎イヤーホエ

イヤーホエ大御代豊かにトホヨトヤ

イヤートホヨトヤアヽヤレソラ五穀は豊穣だイヤーホエ

鹿島神宮 祭頭祭のしおり より


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