伊勢神宮を本宗として、文正元年(1466)に産業繁栄と疫病鎮静の神として
鎮座された。
初め、小網山稲荷院万福寺を別当寺とした稲荷社であったが、その後昭和初期までは
小網稲荷神社と称し、稲荷堀稲荷とも称されていた。
その昔、太田道灌はこの神社に崇敬し、ときどき参拝し、社地を奉じ、社殿を
造営したと言われ、小網の名も彼が付けたといわれている。
また現在の小網町の名もこの神社から付けられたものである。
戦時下において、この神社の「強運厄除守」を奉載した者の多くが
無事帰還したことから、各地から強運厄除けの授かりをうける参拝者が多かった。
稲荷大神を主祭神とした、お社。5月の大祭には東部有数の神社大御輿で賑う。
11月下旬には奇祭どぶろく祭り(室町期に神社が出来て以来延々と続いている
伝統の行事。
豊穣を神に感謝する新嘗祭で奉納したどぶろくを参拝客に振舞ったことに始まる。)が
行われる。
なお、日本橋七福神の福禄寿と弁財天が祀られている。
福禄寿は福徳長寿の神、また弁財天は営業隆昌、学芸成就の神として、親しまれている。
小網稲荷神社略縁起
武蔵国豊島郡入江の辺に万福庵と称し、観世音と弁財天とを安置する庵があった。
この庵は、恵心僧都の開基により、その観世音と弁財天とは僧都の作と伝えられている。
開基の年代は明らかではないが、僧都の当時を考えれば、およそ一千年前ということになろう。
その後文正元年(4166)悪疫が流行して人々の困苦その極に達した。
その頃、網師の翁、海上にて得た稲の穂を持って庵を訪れ、数日庵に過ごした。
ある夜、開基の恵心僧都が庵主の夢枕にたち、翁を稲荷大神と勧請すれば、
一村の悪疫消滅することを告げて夢より去った。
夜明けて庵主は翁を尋ねたが、その姿を見ることができなかった。
庵主はその託宣を村民に告げ、翁を小網稲荷大明神と称え、神社を創建し日夜祈願をつづけた。
その後日ならずして悪疫静まり、人々の歓喜たとえるものがなかったといわれる。
その後、領主太田持資公(道灌)は、神徳著しきことを聞き、庵を訪れ、神社に詣で、
土地を寄附し、小網山稲荷院万福寺と名づけたと伝える。
その後慶長年問より、この地を当神社に因んで小網町と名づけ、当神社を氏神と崇めた。
明治に入り、神仏分離の令によって万福寺と分離、明治6年7月5日、村社に指定された。
現社殿は、昭和4年に造営され、戦禍にもまぬがれ、現在、日本橋地区に残されている
唯一の木造檜造りの神社建築である。特に、向拝に施された上り竜下り竜の彫刻は、
見事なもので、強運厄除の竜として拝されている。社殿・神楽殿は、中央区文化財に登録されている。
万福舟乗弁天社略縁起
当弁財天は、その昔、当神社と同境内にあった恵心僧都の開基と伝えられる万福寺に
安置されていた弁財天である。
その後、明治初年、神仏分離の法令施行後、当神社と分離し、計らずも寺院は廃絶したため、
明治2年(1869)当神社に移され、奉斉されるに至った。
弁財天は、同寺院にちなみ、万福舟乗弁財天と称え、現在、日本橋地区を中心に、
神奈川、埼玉、千葉の近郊にまで崇敬を広げている。