京都 粟田神社(あわた じんじゃ)      Awata Jinja Shrine      22.Dec.2004         天空仙人の神社仏閣めぐり

粟田神社 Official Page
粟田神社 拝殿 粟田神社 舞殿
「拝殿」「舞殿」
HaidenMaiden
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粟田神社 粟田神社
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粟田神社 粟田神社
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粟田神社 開運絵馬 粟田神社 剣鉾 絵馬
「開運絵馬」「剣鉾 絵馬」
Kaiun-EmaKenboko-Ema
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粟田神社 金のまねき猫 粟田神社 招福のひよこ
「金のまねき猫」「招福のひよこ」
Kin-no-Maneki-nekoShofuku no Hiyoko
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粟田神社 獅子のお手玉
「獅子のお手玉」
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粟田神社(あわた じんじゃ) 

Awata Jinja Shrine

京都府京都市東山区粟田口鍛冶町1

1,Awataguchi-kajicho,Higashiyama-ku,Kyoto


粟田神社

旧称 感神院新宮 粟田八大王子社

祭神

建速素戔嗚尊 大己貴尊

古くは山城国愛宕郡下粟田郷に属し、粟田郷は上粟田(北白川・浄土寺・鹿ヶ谷・岡崎) 下粟田(三條以南)に分かれ、この地は上古のころ孝昭天皇(人皇五代)の皇子天足彦国 押人命を祖とする一族が住み鉱物を穿ち粟や瓜を主食として、中古熱田神宮が奉祀される や一族熱田の社人として移り、土地名を残すのみとなれり、その氏神として上古より祀り ありしが人皇五十六代清和天皇貞観十八年(876年)悪疫流行のため、奉行藤原興世に 勅して都の東、白雲の泡立つ郷の霊地に一社を建つ。これ当社の社伝による創祀である。

又、伝う往古八坂神社を感神院と称するに対し当社を感神院新宮と称し、祇園会無き年 は当社の祭礼として祇園会の代りとなす記録あり、依りて当社例祭礼は祇園会の始めの 形なりと云う。

御神徳

厄清祓い(厄除け 病気平癒)、商工経営、縁結び、安産、旅行安全


平安時代 清和天皇貞観18年(876)春に神祇官並びに陰陽寮より、「この年隣境に 兵災ありて、秋には疫病多いに民を悩ます」と天皇に奏上されました。天皇ただちに勅を 下され、五畿七道の諸神に国家と民の安全を祈願された。その際、従五位上出羽守藤原興 世は勅使として感神院祇園社(今の八坂神社)に七日七晩丹精を込めて祈願された。 その満願の夜、夢枕に老翁が立ち、「帝都の東祇園の東北に牛頭天王素盞嗚尊に縁の地在 り。その地に我を祭れば必ず国家と民は安全なり。我は大己貴神なり。」と告げて消えら れた。

興世は夢とは思わず神意なりと奏上し、勅命により奉行としてこの地に社を建ててご神霊 をお祭りした。

また一説には上古、粟田氏の氏神として創建されたとも伝えられる。


粟田神社 三棟 本殿・幣殿・拝殿

粟田神社は、旧粟田村の産土神である。江戸時代までは感神院新宮、あるいは牛頭天王を 祭ることから粟田天王社または粟田八大王子社と呼ばれていたが、現在は素戔嗚尊ほかを 祭神とする。

社伝によると、貞観十八年(876)に従五位上出羽守藤原興世が勅を奉じて勧請したこ とに始まり、その後天台座主東陽坊忠尋大僧正が永久年間(1113〜18)に再建する が、応仁の乱で焼失し、明応9年(1500)に吉田兼倶が再興したという。

本殿・幣殿は昭和八年の棟札写から、文化2年(1805)6月に焼失後、文政6年(1 823)に再建されたことが明らかとなる。建物は、三間社流造の本殿の前に桁行二間・ 梁行三間で正面に方一間の拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿である。拝所の彫刻装 飾には時代的特色がみられ、また流造の屋根の前に入母屋造・妻入、さらにその正面に向 唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観をみせており、江戸時代後期の複合社殿として 価値が高い。拝殿は、確実な史料を欠くものの元禄十六年(1703)に建てられたと伝 え、細部様式もこの頃のものと判断される。本殿・幣殿より建築年代は遡るものの、これ らと一連のものとして貴重である

京都市 案内板より


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