京都 墨染寺(ぼくせんじ) Bokusenji Temple 天空仙人の神社仏閣めぐり
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「墨染寺」 | 「本堂」 |
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Bokusenji | Hondo |
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「桜寺 扁額」 | |
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Hengaku | |
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「日蓮聖人像」 | 「壽碑」 |
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Nichiren Shonin-zou | Ju-hi |
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Bokusenji Temple
京都府京都市伏見区墨染町741
741,Sumizome-Cho,Fushimi-Ku,Kyoto
墨染寺(ぼくせんじ)は、貞観年間(859〜877年)に清和天皇の勅願で藤原良房が創建した 貞観寺(ていかんじ)が始まり。 「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け」 と 平安時代前期、歌人上野岑雄(かむつけのみねお)が、初の関白となった藤原基経の死を悼んで、 詠んだ和歌で、「桜の花に心があるのなら、せめて今年は墨染色(喪服の色)に咲いてほし い」という気持ちが込められている。思いが通じたのか、桜が墨染色に咲いたため、一帯は「墨染 」と呼ばれるようになった、と伝わっている。 この墨染桜の逸話を知った豊臣秀吉は、姉の瑞竜尼が帰依していた日秀上人に土地を寄進し、同上 人が天正年間(1573〜1592年)に、再興させたのが現在の墨染寺だ。再興後、本堂に「桜 寺」の額を掲げたことから、こちらの通称名の方が一般に知られるようになった。その後、現在地 に定まった。 また、当寺は桜の名所でもあります。
壽碑 惟るに(おもんみるに)当寺は清和天皇の勅創たる貞観寺の旧跡なり 堀河左大臣藤原基経昭宣公 薨じて遺骨を此の地に殯(かりもがり)したもうや 上野岑雄哀傷(あいしょう)の情を和歌に託して曰く 「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け」と 此の地の墨染の称は(或いは此の地を墨染と称するは)蓋(がい)し此の歌詞によるものなり 後に大僧都日秀上人道譽頗る崇し 豊公(秀吉)深く之を信じ挙げて此の地を上人に寄附して本宗に属し銘を墨染桜寺と改む殿堂高閣 にして転奐(りんかん)の美備わる 爾来星霜数百年寺運振わず塚を破り碑を断ち累々として 四方に狼藉する荒涼の状轉(うたた)感慨の情堪えざるなり ここに第三十七世学妙上人先に宇治直行寺に住し次いで 梅津本福寺に転ずるも夙に当山の廃類せるを慨(なげき)き意(こころ)に回復の事を期し入りて此寺に主となるや 乾乾?尾(けんけんていび)寒暑にして虚日なく 復興に是務む 依って聊か師恩に酬いんがために壽碑を寺の側に建て 日常の微事を勒(きざ)みて之を伝へて不朽ならしめんと欲し文を余に微す 余と上人とは同じく達門(だつもん)の流類なり敢て辞せず乃ち 上人の行跡を按じて其の梗概(きょうがい)の系を叙し以て銘じて曰く 千歳跡遠く 廟影(ろうけい)空しく 傾く 乾(ここ)に力を致して 忽ち法城を現す 顕徳測?(がた)し 誠の点睛を積むは 維(こ)れ労維れ績(いさお) 勒んで永く 彰旌(あらわす) |
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