京都 永観堂 禅林寺    (えいかんどう ぜんりんじ)      Eikando Zenrinji Temple       29.Nov.2003     天空仙人の神社仏閣めぐり

永観堂 禅林寺 Official Page
永観堂 御影堂 永観堂 多宝塔
「御影堂」「多宝塔」
GOEI-DOTAHO-TO
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永観堂 永観堂 唐門
「唐門」
KARA-MON
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永観堂 紅葉 永観堂 紅葉
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永観堂 紅葉 永観堂 紅葉
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永観堂 紅葉 永観堂 臥龍廊
「臥龍廊」
GARYURO
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永観堂 紅葉 永観堂 紅葉
「画仙堂」
GASENDO
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京都 永観堂 禅林寺(えいかんどう ぜんりんじ)

Eikando Zenrinji Temple

京都府京都市左京区永観堂町48

48,Eikando-Cho,Sakyo-Ku,Kyoto


永観堂 禅林寺

おく山の岩がき紅葉散りぬべし、

      照る日の光、見る時なくて

           「古今集・秋下」藤原関雄

この歌は、平安時代初期に、永観堂(禅林寺)を創建された弘法大師の弟子真紹僧都(7 97〜873)の徳をしたって、自分の別荘を寄進した藤原関雄の詠んだ歌である。

それから後今日まで、幾多の文化人達の筆や口にもてはやされ、親しまれて来た″モミジ の永観堂″は、千百有余年のかがやかしい歴史をもった京都有数の古刹である。

創建にあたって、真紹僧都は「禅林寺清規」に、「仏法は人によって生かされる、従って、 我が建てる寺は、人々の鏡となり、薬となる人づくりの修練道場であらしめたい。」 と、照り映えるモミジ葉の輝きにも負けぬ、智徳ともにすぐれた人材養成を理想の旗じる しに掲げられたので、風光の美しさとともに、伝統的に各時代の指導的人材の輩出を数多 くみた。

みな人を渡さんと思う心こそ極楽にゆくしるべなりけれ「千載集」と詠まれた永観律師( 1033〜1111)は、ことに高名である。

律師は、自らを「念仏宗永観」と名のられる程、弥陀の救いを信じ、念仏の道理の基礎の 上に、当時、南は粟田口から北は鹿ケ谷に到る東山ぞいの広大な寺域をもった神林寺の場 内に、東南院という施療院を建て、窮乏の人達を救いその薬食の一助にと梅林を育てて、 「悲田梅」と名づけて果実を施す等、救済活動に筆力せられたことは、多く史書にみえる           ところであるが、特に永保二年二目十五日の早朝、いつもの通り、一心不乱に念仏行道を しておられると、本尊の阿弥陀仏が壇上より降り、先導する様に行道をはしめられたので、 夢でないかと不思議の思いに立ちどまると、それを見とがめられた阿弥陀様が、左にみ

 忍ぶ寝も声なかりけりほととぎす

  こや禅かなる 林なるらん 

                               「新拾遺」永観律師

かえりつつ、「永観おそし」との呼びかけに、ふとわれに帰って、まのあたりに顧みてお られる尊容を拝して、「奇瑞の相を後世永く留めたまえ」との、願いを聞きとどけられた と伝える「顧如来」の物語りは有名である。

この寺を「聖衆来迎山無量寿院」と別称するのも、皆、この永観律師の念仏行を、当時の 人々が、讃仰して名づけたものであり、後世、「永観堂」と云いならわしているのも律師 の施療治動への報恩を意味するものである。

 現今、この永観堂が、浄土宗西山禅林寺派の総本山になったのも、律師の念仏行が種と なったのである。即ち鎌倉時代の初め、源頼朝の帰依をうけた真言宗の学匠静遍僧都(〜 1224)が、法然上人(1133〜1212)の死後、その著「選択本願念仏集」にあ る念仏義を批判するために、再三再四読み下すうちに、自らの非を覚り、誹謗の罪をくい て、上人をこの寺の一代に推し、高弟西山証空上人(1177〜1247) に譲ること を墓前に誓われたことに起因し、今日まで、約八百年永観堂は浄土宗西山禅柿寺派の根本 道場として、法灯を掲げている。

時代がさがって室町期になると、政情は、常に不安定であり、ことに南北朝の抗争、応仁 文明の乱は、風光明眉の京都を兵火のもとに破壊しつくし、この寺も灰燼に帰するととも に、寺域も狭ばめられることになったが明応永正の噴から世情の落付きと共に、賢立、融 舜、宏善、甫叔等の各上人が続出して、鋭意復興に努力され、今日の美観の基礎がきづか れた。いま所蔵せられている文化遺産の多くは、これ等各上人の努力によるものである。

近世に入り、幕末頃、俊玉上人(〜1881)がこの寺に住し、交通のようやく頻繁にな つた国道一号線の日の岡峠の改修、京都府立病院の前身となる療病院の開設、琵琶湖から の疎水による渇水からの開放計画等は、真紹僧都の清規精神につらなる系譜の人として忘 れることの出来ない人々である。


Zenrin-iiTemple

Zenrin-ji、the head temple of jodo(Pure Land Buddhism) Seizan Zenrin-ji sect was founded in 855 by Shinsho. lt is generally called Eikando, which derives from Eikan(1032-1111), the seventh head priest.He is known to this day for his devotion to Pure Land Faith.

Eikando is famous for the sublime principal image called Mikaeri-no-Amida(Amida Buddha looking back over His shoulder).

There is a story about thus principal image.On February 15 in 1082,at the main hall,Eikan was intent on chanting nembutsu, walking around the altar.All of a sudden,Amido Buddha got down from the altar and started to walk ahead of Eikan.He was so amazed that he stopped on the spot,and saw Amido looking back at him over His left shoulder.Eikan heard Amida admonishing him,"Eikan you are dawdling".Latter,Eikan had a sculptor creat a statue of Amida Buddha,which has been handed down to Zenrin-ji temple as the central object of worship.

Zenrin-ji temple is also noted for the fine harmony of the buildings and the Higashiyama hills in the background and especially for the beauty of the maple trees in autumn.

永観堂 禅林寺 パンフより


永観堂 禅林寺

聖衆来迎山禅林寺と号する浄土宗西山(せいざん)派の総本山で、通称永観堂と呼ばれて いる。

斉衡2年(855)空海の弟子真紹(しんしょう)が藤原関雄(せきお)の山荘を寺院と したのが起こりで、貞観5年(863)には天皇から定額(じょうがく)を得た。 その後一時衰えたが、平安時代の末、承暦年間(1077〜1081)に永観(ようかん )が住持となり、念仏道場を開き寺を中興した。永観はこれにより中興開山と呼ばれ、寺 名も永観堂の通称で呼ばれるようになった。以後当寺は浄土教を広め、鎌倉時代中期には 浄土宗西山派開祖證空(しょうくう)の弟子浄音(じょうおん)が住持となり、浄土宗一 派の本山の基礎を固めた。その後応仁の乱により堂舎が焼失したものの明応6年(149 7)後土御門天皇の命により再興し、以後逐次諸堂が再建され現在の伽藍が整えられた。

寺宝として山越阿弥陀(やまごしあみだ)図(国宝)をはじめ鎌倉時代以来の仏画多数を 蔵し、特に本尊の阿弥陀如来立像は首を左に向けた我が国唯一の逸品で「みかえりの弥陀 」と呼ばれて親しまれている。

京都市 案内板より


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