京都 大原 来迎院(らいごういん)       Raigoin Temple   27.Oct.2012    天空仙人の神社仏閣めぐり


大原 来迎院 本堂
「大原 来迎院」

大原 来迎院 山門 写真 大原 来迎院 本堂 写真
「山門」「本堂」
SanmonHondo
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大原 来迎院 本堂 写真 大原 来迎院 本堂 写真
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大原 来迎院 本尊 写真 大原 来迎院 本尊 阿弥陀如来像 薬師如来像 釈迦如来像 写真
「本尊」「本尊 左から 

阿弥陀如来像 薬師如来像 釈迦如来像」

HonzonHonzon
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大原 来迎院 薬師如来像 写真 大原 来迎院 天女図 写真
「薬師如来」「天女図」
Yakushi-NyoraiTennyozu
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大原 来迎院 不動明王像 写真 大原 来迎院 毘沙門天像 写真
「不動明王像」「毘沙門天像」
Fudo-MyoouzouBishamontenzou
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大原 来迎院 石仏 写真 大原 来迎院 絵馬 写真
「石仏」「絵馬」
SekibutsuEma
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京都 来迎院 境内図
「境内図」

大原 来迎院(らいごういん)

Raigoin Temple

京都市左京区大原来迎院町537

537,Oohara-Raigoin-Cho,Sakyo-Ku,Kyoto


京都 大原 来迎院

歴史

当院は魚山橋の東呂川に沿つて山道を300米程登り外界と隔絶した雰囲気をもつ天 台宗の古刹である。この来迎院のある大原は、平安時代初期(9C)日本天台宗を開 宗した伝教大師最澄の直弟子の慈覚大師円仁(794〜864)が声明(仏教歌謡) の修練道場として開山した。円仁が中国(唐)に留学した際、五台山(山西省)の太 原(タイユワン)を中心に五台山念仏(声明)が流行していたのを学び、帰国後比叡 山に伝えた。この大原の地形は、中国の太原と類似していたので声明の根本道場と定 められた。声明とは経文に音曲をつけて歌詠するもので、音楽的な色彩が強く後の邦 楽(今様・浄瑠璃・謡曲・民謡など)に強く影響を与えた。

藤原時代(10〜12C)には、俗化した叡山を離れた念仏聖が修業する隠棲の里と なり、寂源が勝林院(1013)を叡山東塔の堂僧であった聖応大師良忍(1072 〜1132)が来迎院(1109)を建立した。

創建当時の来迎院は、三尊院と称し多数の堂塔伽藍があったが応永33年(1426) 11月火災で焼失した。この後大原は、上院来迎院と下院勝林院を中心として坊が集 落化する別所となり魚山大原寺と総称した。

平安時代末期(12C)来迎院を建立された良忍上人は、円仁が伝えた声明を統一し 魚山流声明を集大成された。この魚山流はその後天台声明の主流となる。盛時には、 坊が49あったといわれ声明を修練する僧侶や貴族が数多く集まり妙音のこだまする 里として隆盛をきわめた。そこで叡山は、梶井政所(現三千院)を設置し(1156) 魚山大原寺の統括を計った。

良忍上人以後来迎院からは、湛智、宗快、喜淵などの声明理論家を輩出し声明の本山 としての血派を守り続けた。

良忍上人

良忍上人は、尾張(愛知県)の富田(東海市)の人。13才で叡山に登り、檀那院良 賀(実見)に就いて出家し、天台の教相と観心を学び、園城寺禅仁に大乗戒を受け、 仁和寺永意に金剛・胎蔵・両部の潅頂を受け顕教にも密教にもすぐれた聖であった。

平安時代末期の叡山は、自他救済の仏道実践が行じ難くなったので、修行の地を求め て大原へ隠棲された。大原隠棲後38才で来迎院を建てここに止住し、如来蔵を建て 大乗三蔵(経・律・論)をおさめた。良忍上人は、毎日法華経を読誦し、大乗経典を 書写し、念仏六万遍を唱え、手足の指を燃して仏に供養された。さらに音無の滝(律 川300米上流)で滝に向い声明を唱えられたり、獅子が良忍上人の唱える声明の調 べに陶酔し、堂内をかけめぐり岩になって残った(獅手飛石)などの三昧行に精進さ れた。その結果永久5年(1117)5月46才の時念仏三昧中に阿弥陀仏から融通 念仏の教えを授けられた。融通念仏とは、一人の念仏と衆人の念仏とが互に離通しあ って往生の機縁となることで、この教えをもって良忍上人は弟子達によって布教にあ たらせ、都や畿内にその教えは流布され、やがて河内(大阪府)平野の大念仏寺を総 本山として融通念仏宗を開宗するようになる。良忍上人は、天承二年(1132)2 月1日60才来迎院で入寂された。


本堂内案内

内陣

本尊

薬師如来(国.重文)  

釈迦如来(国.重文)  

弥陀如来(国.重文)  

三尊とも藤原時代の木像漆箔寄木造で、円満な相好とやわらかい曲線により、優雅な美を構成している。

脇侍  不動明王(左) 藤原時代(後期)

    毘沙門天(右) 藤原時代(後期)

前卓  牡丹唐草牡透彫  鎌倉彫の初期、牡丹唐草の雄壮な図案や、その 透彫の刀のさえは日本彫刻の特色を見せる。

外陣

左脇壇  慈覚大師坐像  鎌倉時代(推定)

     元三大師画像  鎌倉時代(推定)

     聖応大師坐像  鎌倉時代(推定)

右脇壇  徳川歴代将軍尊霊   江戸時代当院は、江戸幕府の御朱印寺として 幕府より寺領を授かる。

寺宝

伝教大師度縁案並僧網牒一巻(国宝)   平安時代初期仏教界の責重な資料である(東博出品)

日本霊異記    中・下巻(国宝)   日本最古の仏教説話集(京博出品)

来迎院如来蔵聖教文書類

良忍自筆類16部聖教類419部

文書類120部計555部(国.重文)

良忍上人の自筆写本を始め、平安時代の聖教あるいは、声明等に関する貴重な典籍・記録・文書である。

来迎院 パンフレットより


来迎院

魚山と山号する天台宗の寺院で、仁寿年間(851〜854)に円仁(慈覚大師)が、唐で学んだ梵唄(ぼんばい 梵語の仏教歌謡)などの声明(しょうみょう)の修練道場として創建したものである。声明とは、インドで始まった学問の1つであるが、日本では仏を讃える歌謡や経を読む音律として広がり、仏教のほか民謡などの日本音楽にも大きな影響を及ぼした。

その後、平安時代末期に、融通念仏の開祖・良忍が再興して、円仁に始まる声明を大成した。

この声明は、魚山(ぎょざん)流と呼ばれ、以後、天台声明の根本道場として栄えた。

本堂には、藤原期の薬師・阿弥陀・釈迦三尊仏(重要文化財)を安置し、寺宝としては、伝教大師度縁案(どえんあん)並僧綱牒(そうこうちょう)(国宝)などを蔵するが、現在は東京国立博物館に寄託している。

山道を更に約200メートル上がった所には良忍が声明を唱えていると、声明の音律と融合して水音が消えたといわれる音無の滝がある。

門前 京都市 駒札より


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