槙尾 西明寺(さいみょうじ) Makinoo Saimyoji Temple 天空仙人の神社仏閣めぐり
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「槙尾 西明寺」 |
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Makinoo Saimyoji Temple |
「槙尾 聖天堂」 | 「表門」 |
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Makino Shotendo | Omote-mon |
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「本堂」 | 「参道石段」 |
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Hondo | Sando Ishidan |
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「聖天堂」 | 「聖天宮石標」 |
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Shotendo | Shotengu Sekihyo |
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「聖天堂 巾着」 | 「聖天堂 二股大根」 |
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Kinchaku | Futamata-Daikon |
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「聖天堂 香炉」 | 「本堂 扁額 霊山鷲心」 |
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Koro | Hengaku |
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「槇(高野槇) 自性上人 手植えの木」 | |
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Maki | |
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「白露のおのが姿をそのままに 紅葉にわけば紅の玉」 | |
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Saimyoji Temple
京都市右京区梅ケ畑槇尾町
Makinoo-Cho,Umegahata,Ukyo-Ku,Kyoto
TEL 075−861−1770
槇尾山 西明寺 【由来】 西明寺は、古義真言宗に属し槇尾山と号す。高雄(尾)山・神護寺、栂尾山・高山寺と共に三尾の名刹の一つとして知られる。 古来から、清滝川のせせらぎと共に、春の桜、つつじ、初夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色と、四季を通じて豊かな自然を現している。 天長年間(824〜834)に弘法大師の高弟智泉大徳が神護寺の別院として創建したのに始まると伝える。 荒廃後、建治年間(1275〜1278)に和泉国槇尾山寺の我法自性上人が中興し、本堂、経蔵、宝塔、鎮守等が建てられた。 また正応3年(1290)に平等心王院の号を後宇多法皇より命名賜り、神護寺より独立した。 さらに、永禄年間(1558〜70)に兵火にあって焼亡したが、慶長7年(1602)に明忍律師により再興された。 現在の本堂は、元禄13年(1700)に桂昌院の寄進により再建されたものである。 堂内には、唐様須弥壇上の本尊釈迦如来像(重要文化財)を始め、多数の仏像が安置されている。
【仏像】 釈迦如来像 本堂正面の須弥壇上の厨子内に安置されている本尊で、鎌倉時代に仏師運慶によって彫られた立像である。 清涼寺式釈迦如来像で生前の釈迦如来の面影を伝えていると云われており、重要文化財となっている。 釈迦如来は二千五百年前に印度国に生まれ、仏教を創説された。その教えは、「万物は因、緑、果の法に従う。 因、縁、果の法を見る時、正智を生ずる。正智を生ずる時、正しい生活が行われる。 正しい生活が行われる時、苦しみ、悩みから救われ、ここに平安の光明が実現する。」と説いている。 千手観世音菩薩像 本堂の脇陣に安置されており、平安時代に彫られ、重要文化財となっている。 頭上に十面を戴き、宝冠をかぶり、合掌する真手を含め四十二手の千手観世音菩薩像である。 細面で鼻筋が通った繊細な顔立ちをした立像である。慈悲の力を持って衆生の苦しみを救うと信仰されている。 愛染明王像 本堂の脇陣に安置されており、鎌倉時代後期に慶派に連なる仏師によって彫られた明王像である。 五鈷を戴く獅子冠を頭上に乗せ、三目を瞋らせ、開口して牙歯と舌先を現わし、六臂の各手に法具や弓箭等を執って坐っている、 我宝自性上人の念持本尊で、愛の力を授かるとして古来から多くの人々に拝まれてきた。 【建造物】 本堂 元禄十三年(1700)に五代将軍徳川綱吉の生母母桂昌院の寄進により再建された。 桁行七間、梁行四間で、内部は梁行に三分されている。中央間が内陣で、後方に四天柱を建て、 逆蓮擬宝珠付きの唐様須弥壇には厨子が奉安されている。 両横の脇陣が外陣の役割を果たしており、真言宗寺院の本堂としては特異な平面てある点に特色がみられる。 正面入口の梁上に「霊山鷲心」の額が掲げられている。 客殿 本堂の左方に接近して建ち、本堂左後方と短い渡廊下で結ばれている。 造営は本堂より古く、江戸時代前期に移築された。 当時は食堂と称し、僧侶の生活や戒律の道場として使用されていた。 前列二室、後列三室からなり、前列南室には、慶長および元和年間に三度にわたって制定された九ケ条からなる「平等心王院僧制」木札が掲げられている。 表門 一間薬医門で、本堂と同じ元禄十三年(1700)の造営になり、西明寺の元禄造営の一連の建造物として貴重である。 【人物】 智泉大徳 延暦八年(789)に讃岐国に生れ、姓は菅原氏、母は阿刀氏で弘法大師の甥にあたる。 九歳の時、弘法大師に従い弟子となり、大師をして「密教の事は智泉に任す。」と云われるぽど聡明であった。 天長二年(825)、病にて高野山で寂す。弘法大師は痛く之を慟哭し、自ら文を草したと云われる。 我宝自性上人 姓は詳ならず、字は自性で、世に自性上人と尊称された。 徳行高邁、博く顕密の学に通じ、学徒雲集せり。 上人の教義として「生活に直結する信仰」が唱導された。 即ち、花を供えては「忍耐」の徳を養い、線香を供えては「努力・精進」の徳を省み、水を供えては自他共に潤う「施し」の徳を、 御飯を供えては精神の食糧たる「禅定静心」の徳を養うのが肝要である。 上人の和歌に、「白露のおのが姿をそのままに紅葉にわけば紅の玉」(一座行法肝要記)がある。 明忍律師 天正四年(1576)に京都に生れ、姓は中原氏、字は俊正、少内記康雄の次子である。 七歳の時、高雄山の晋海僧正に従い弟子となり、内外の諸典を学んだ。慶長十五年(1610)、対馬にて病を得て寂す。 律師の「自誓得戒の教え」に桂昌院帰依されて、現在の本堂を寄進された。 その教えによれば、誠心を持って神仏の前で誓を立てれば、神仏の加護する力と自分の努力する力とで始めて生活に規律(戒)が立ってくるのである。 槇尾山 西明寺 栞 より
西明寺 槇尾山(まきのおさん)と号する、真言宗大覚寺派の準別格本山である。 高雄(たかお)(尾(お))山(さん)の神護寺(じんごじ)、 栂尾山(とがのおさん)の高山寺(こうざんじ)とともに三尾(さんび)の名刹(さつ)の一つとして知られ、 紅葉の名所として名高い。 天長年間(824〜834)に、弘法大師(空海)の弟子、智泉(ちせん)が神護寺の別院として開創し、 鎌倉時代の建治年間(1275〜1278)に和泉国(いずみのくに)(現在の大阪府南西部)槇尾山の自性上人(じしょうしょうにん)が中興したと伝えられる。 その後、正応(しょうおう)三年(1290)に、後宇多(ごうだ)天皇より名前を賜り、神護寺から独立した。 現在の本堂は、徳川五代将軍綱吉の生母、桂昌院(けいしょういん)が、元禄十三年(1700)に寄進したものと伝えられ、 正面の須弥檀(しゅみだん)に本尊の釈迦如来立像(しゃかにょらいりゅうぞう)(重要文化財)が祀(まつ)られている。 この像は、高さ51センチメートルの小像で、清涼寺(嵯峨釈迦堂)の釈迦如来像を模して、鎌倉時代に運慶によって作られたものである。 とりわけ、門前に架かる朱塗りの指月橋(しげつきょう)付近の眺めは格別で、多くの参詣者が訪れる。 京都市 案内板より
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