名勝庭園 曼殊院門跡(まんしゅいん もんぜき)    Manshuin Monzeki Temple   天空仙人の神社仏閣めぐり

曼殊院門跡 Official Page
曼殊院門跡 曼殊院門跡
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曼殊院門跡 曼殊院門跡
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曼殊院門跡 曼殊院門跡 勅使門
「勅使門」
Chokushi-mon
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曼殊院門跡 曼殊院門跡
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曼殊院門跡(まんしゅいん もんぜき)

Manshuin Monzeki Temple

京都市左京区一乗寺竹ノ内町42

42,Ichijoji-Takenouchi-Cho,Sakyo-Ku,Kyoto

TEL 075-781-5010


名勝庭園 曼殊院門跡

桂の離宮・修学院離宮・曼殊院門跡は後水尾天皇と特別深い関係がある。桂の離宮が造営 された八条宮智仁親王の次男、良尚親王(後水尾天皇猶子)が13才でご出家なされると 、父君、智仁親王は喜んでこの地における曼殊院造営に助力された。

建築・作庭の基本理念は細川幽斉から伝授された古今和歌集(国宝)、古今伝授(重文)、 源氏物語(重文)、伊勢物語、白氏文集等の詩情を形象化することであった。 それが当院の大書院・小書院・枯山水の庭園となって実を結んだ。

良尚親王(1622〜1693)は25才より29才まで天台宗の座主(管長)として一 宗を司り、黄不動尊(国宝)に祀って密教を極めた。一旦下山し、御所において後水尾天 皇を始め、親王、皇子の方々にお茶やお華を指導なされた。 明暦2年35才の時、現在の曼殊院の堂宇の完成をみて永住、40年間、茶道・華道・香 道・書道・画道を仏道修行の具現と悟達、それを通して人間の完成に精進された。 その努力の遺跡が当院であり、芸術の香り高い江戸公家文学の遺芳なのである。


曼殊院門跡

曼殊院は、もと伝教大師の草創に始まり(八世紀)、比叡山西塔(さいとう)北谷にあっ て東尾坊(とうびぼう)と称した。 天暦元年(947)、当院の住持、是算(ぜさん)国師は菅原氏の出であったので、北野 神社が造営されるや、勅命により別当職に補せられ、以後歴代、明治の初めまで、これを 兼務した。 また天仁年間(1108〜9・平安後期)、学僧、忠尋座主が当院の住持であったとき、 東尾坊を改めて曼殊院と称した。現在の地に移ったのは明暦二年(1656)で、桂宮智 仁親王の御次男(後水尾天皇)良尚法親王の時である。

親王は当院を御所の北から修学院離官に近い現在の地に移し、造営に苦心された。 庭園、建築ともに親王の識見、創意によるところ多く、江戸時代初期の代表的書院建築で、 その様式は桂離宮との関連が深い。 歴代、学徳秀れた僧の多かった名刹である。(国宝、黄不動尊・古今和歌集曼殊院本を蔵する。)

虎の間 (重要文化財)

(大玄関)襖は狩野永徳筆と伝えられる。(桃山時代)

竹の間 

(次の玄関)襖は江戸時代の版画。

孔雀の間 岸駒(がんく)筆。(江戸時代中期)

大書院 (重要文化財)江戸時代初期の書院建築。

奥の仏間は、もと書院の上段の間であったが、大書院西方にあった宸殿(しんでん)とり こわしの際(明治初め)、現在の場所にうつしたものである。本尊は阿弥陀如来。歴代の 位碑を安置する。

なお、建築は、桂離宮との様式の類似に注意すべきで、引手等に種々の意匠をこらして いる。(瓢箪、扇、等)

滝の間  

障壁画は狩野探幽筆。(江戸時代初期)床の間の中央に滝の絵があった。 欄間は、月型、卍(まんじ)くずしである。

十雪の間(じゅせつのま)  

障壁画は狩野探幽筆。 違い棚は、様式、用材ともに桂離官のものと同じで、同時に作られたものという。

庭園(名勝庭園指定)

遠州好みの枯山水(かれさんすい)である。庭の芯に滝石があり、白砂の水が流れ出て、 滝の前の水分石(みずわけいし)からひろがり、鶴島と亀島とがある。鶴島には五葉の松 (樹令約四百年)があって、鶴をかたどっている。松の根元にはキリシタン燈籠があり、 クルス燈籠又は曼殊院燈籠と呼ばれる。亀島には、もと地に這う亀の形をした松があった 。庭園右前方の霧島つつじは、五月の初旬、紅に映えて見事である。この枯山水は、禅的 なものと王朝風のものとが結合して、日本的に展開した庭園として定評がある。

小書院 (重要文化財)

大書院とともに書院建築の代表的なものといわれ、とくに小書院は、その粋を示すもので ある。屋根は、大、小書院ともに柿(こけら)ぶき。釘かくしは富士の形に七宝の雲を配 したもの。小書院入□の梟(ふくろう)の手水鉢は、下の台石は亀、傍の石は鶴をかたど っている。なお、奥に茶室「八窓席」がある。(非公開)

富士の間

襖は狩野探幽筆。額は、松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう)筆。(「閑静(かん じょうてい)亭」)欄間は菊を型どったもので、元禄模様の先駆をなすといわれる。

黄昏(たそがれ)の間

上段の間(玉座)。襖は探幽筆。 違い棚は、曼殊院棚とよばれ、約十種の寄せ木をもって作られたもの。

丸炉(がんろ)の間

日常用の茶所。この奥に親王の日常の間がる。

中庭

一文字(いちもんじ)の手水鉢、井戸があり。庭の芯は松の根元の石。

庫裡 (重要文化財)

現在の通用口。石造の大黒天は鎌倉時代のもの、甲冑(かっちゅう)を帯びた姿で仏教の 守護神となす。 入口の大妻屋根の額「媚竈(びそう)」は良尚親王筆。論語はちいつ(はちいつ)篇に 「その奥に媚(こ)びんよりは、むしろ竃(かまど)に媚びよ」とあるによる。

曼殊院 しおりより


曼殊院門跡

最澄が比叡山に建立した一坊を起こりとする天台宗の寺院で、青蓮院(しょうれんいん) 、三千院、妙法院、毘沙門堂(びしゃもんどう)と並ぶ天台宗五箇室門跡の一つに数えら れる。門跡とは皇族や摂関家(せっかんけ)の子弟が代々門主となる寺院のことで、当寺 では明応(めいおう)四年(1495)に、伏見宮貞常親王(ふしみのみやさだつねしん のう)の子、慈運大僧正が入手したことに始まる。

初代門主の是算国師(ぜさんこくし)が菅原家の出身であったことから、菅原道真を祭神 とする北野天満宮との関係が深く、平安時代以降、明治維新に至るまで、曼殊院門主は北 野天満宮の別当職を歴任した。

数度の移転を経た跡、天台座主(ざす)(天台宗最高の地位)を務めた良尚法親王(りょ うしょうほうしんのう)により、江戸初期の明暦(めいれき)二年(1656)に現在地 に移された。良尚法親王は桂離宮を造った八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとし んのう)の子で、父宮に似て、茶道、華道、書道、造園等に優れ、大書院や小書院(とも に重要文化財)の棚や欄間、金具など、建築物や庭園の随所にその美意識が反映されてい る。

大書院の仏間には本尊の阿弥陀如来立像が安置され、小書院の北側には、八つの窓を持つ 明るい茶室、八窓軒(はっそうけん、重要文化財)がある。優雅な枯山水庭園は国の名勝 に指定されており、寺宝として、「黄不動」の名で知られる不動明王像(国宝)を蔵する が、現在は京都国立博物館に寄託されている。

京都市 案内板より


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