嵯峨野 二尊院(にそんいん)    Nisonin Temple   2.MAY.2003  天空仙人の神社仏閣めぐり


嵯峨野  二尊院 総門 写真 嵯峨野  二尊院 紅葉の馬場 写真
「総門」「紅葉の馬場」
SOH-MON
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嵯峨野  二尊院 写真 嵯峨野  二尊院 写真
「本堂」
HONDO
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嵯峨野  二尊院 唐門(勅使門) 写真 嵯峨野  二尊院 写真
「唐門(勅使門)」「本堂扁額」
KARA-MONWOODEN PLAQUE OF YHE HONDO
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嵯峨野  二尊院 九頭竜弁財天 写真 嵯峨野  二尊院 九頭竜弁財天鳳凰 写真
「九頭竜弁財天」「九頭竜弁財天鳳凰」
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嵯峨野  二尊院 西行法師庵の跡 写真
「西行法師庵の跡」
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嵯峨野  二尊院 開運だるま 写真 嵯峨野  二尊院 めいそう 写真
「開運だるま」「めいそう」
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二尊院(にそんいん)

Nisonin Temple

京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町

Saga-Nisonin-Monzen-Chojin-Cho,Ukyo-Ku,Kyoto


二尊院について

「百人一首」で名高い小倉山の東麓にあって、本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀る ため、二尊院と呼びますが、正しくは「小倉山二尊教院華台寺」といい、明治以降天台宗 に属しております。嵯峨天皇(在位809〜823)の勅願により慈覚大師が承和年間( 834〜847)に開山したといわれております。

釈迦如来は、人が誕生し人生の旅路に出発するときに送り出してくださる「発遣(はっけ ん)の釈迦」といい、阿弥陀如来は、その人が寿命をまっとうした時に極楽浄土よりお迎 えくださいます。これを「来迎の阿弥陀」といいます。共に鎌倉時代の春日仏師作(重要 文化財)と伝わっております。この思想は唐の時代中国の善導大師が広め、やがて日本に 伝わり法然上人に受け継がれたのです。その為に現在は法然上人25霊場17番札所とな っています。当寺は、明治維新まで天皇の名代として勅使参詣があり、御所でのすべての 仏事を司り公家方との交流も盛んでした。

応仁の乱(1467〜1477)によって諸堂が全焼しましたが、現本堂、唐門(勅使門) は約30年後に再建されました。本堂「二尊院」の勅額(後奈良天皇)、唐門「小倉山」 の勅額(後柏原天皇)は、このとき下賜されたものです。現在でも「二条家」「三条家」 ・「四条家」・香道の創始者である「三条西家」又、平成3年に行幸啓をいただいた今上 天皇の姉君鷹司和子様「鷹司家」の菩提寺でもあります。

又、本堂(京都市指定文化財)は特に京都御所の紫辰殿を模して内陣も紫辰殿のお内仏と 同様に造られました。また、外陣の床は「うぐいす張り」となっています。

また、総門は豪商角倉了以が、伏見城の「薬医門」を移築したもので、参道は紅葉の馬場 といわれ秋には紅葉が美しい所です。

梵鐘は慶長9年(1604)の鋳造でしたが、平成4年(1992)に再鋳し「しあわせ の鐘」と名づけ、第一に自分が生かされている幸せを祈願し、第二に生きとし生けるもの に感謝し、第三に世界人類の幸せのためにと三つ撞いて、それぞれに祈願していただいて おります。

二尊院しおりより

山腹の墓地には、三条実美、角倉了以、板東妻三郎など有名人のなどの墓が多い。


The Nison-in, formally known as the Ogurayama Nison-in Kedai-ji,enshrines two principal images; Shaka and Amida. Both of these images are national treasures.

In the past, when Kyoto was the Imperial Capital, the Nison- in was designated as one of the "Four Auspicious Temples". Correct in its observance of formalities, it administered Imperial Buddhist Ceremonies. At times when a High Priest was nominated, it was customary for him to visit the Imperial palace and to receive the purple robe,the Symbol of the highest rank in Buddhism. All of these ceremonies, however, ceased when the Imperial Capital was shifted to Tokyo.

The temple was first built during the "years 834-847, by Jikaku Daishi under the patronage of Emperor Saga. Later, the well- known San Tei Ryo, or Cemetery of the Three Emperors, was established in the temple precincts, in accordance with the will of Emperor Kameyama. The San Tei Ryo holds the ashes of the Emperors Tsuchimikado,gosaga and Kameyama.

The main gate, the former Yakui gate of Fushimi castle, was moved to its present site in 1613 by a properous merchant named Suminokura.

The arbor Shigure Tei in the back hillside is the place wher Teika Fujiwara(1161-1240) put together the famed anthology "A Hundred Poems by a Hundred Poets "(Hyaku-nin-isshu). The tea house, known as the Misono-tei,holds several famous paintings by Eitoku Kano.


二尊院(にそんいん)

小倉山と号し、天台宗山門派(延暦寺)に属する。承和八年(841)嵯峨天皇の勅願に よって慈覚大師が創立した。本尊に釈迦如来、阿弥陀如来(重要文化財)の二尊を祀る。 永く荒れていたのを法然上人の高弟湛空が再興した。

境内は楓樹が多く、本堂の後の山は、

百人一首の

  小倉山 峯のもみじ葉 心あらば

     今一度の 御幸またなん 

                             忠平

の歌で名高い小倉山で昔から紅葉の名所として知られている。

また、大堰川開墾者角倉了以や、儒者伊藤仁斎、その子東涯などの墓がある。

定家卿が百人一首を撰んだ時雨亭は、この小倉山の山腹にあったともいわれる。

京都市 案内板より


小倉餡発祥の由来

日本で始めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは京都に於いて平安京ができて間もなくの82 0年頃のことであります

当時 京のこのあたり小倉の里に亀の子せんべいを作っている和三郎という人がいて 8 09年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し それに御所から下賜された砂糖 を加え 煮つめて餡を作りました これを毎年御所に献上されました

こうした菓子は極めて高価で珍しいものでありましたので一般の庶民の口には入りません でしたが この和三郎の努力で京都を中心に小豆が広く栽培され 江戸時代には茶道の菓 子となり 又一方では祝飯として ハレの料理にも加えられるようになりました

更に空海は中国の亀の甲煎餅の技術も伝授し京菓子の技術は日本の和菓子の源流となりま した

和三郎は承和七年二月二日(840年)に亡くなりましたが その子孫並びに諸国同業の 人々がその功績をたたえて小倉中宇愛宕「ダイショウ」の里に一社を建て 朝廷の允許を 得て 屋号が亀屋和泉でありましたので 和泉明神としてまつられるようになりました

その後 年月を経て明神の社は兵火に焼かれ 子孫も絶えて 只古老の伝承として小倉の 地に和泉明神の社があったと伝えられています

                   井筒八ツ橋本舗  津田佐兵衞(六代)記


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