長崎 興福寺(こうふくじ)      Nagasaki Koufukuji Temple 天空仙人の神社仏閣めぐり

長崎 興福寺 Official Page
長崎 興福寺 大雄宝殿(本堂)写真 長崎 興福寺 航海慈雲の扁額 写真
「大雄宝殿(本堂)」「航海慈雲の扁額」
DaiyuuhoudenHengaku
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長崎 興福寺 大雄宝殿(本堂)写真 長崎 興福寺 瑠璃燈 写真
「大雄宝殿(本堂)」「瑠璃燈」
DaiyuuhoudenRuritou
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長崎 興福寺 本尊 釈迦如来と<P>脇立 準提観音菩薩と地蔵王菩薩 写真 長崎 興福寺 瓢瓶(ひょうへい) 写真
「本尊 釈迦如来と

脇立 準提観音菩薩と地蔵王菩薩」

「瓢瓶(ひょうへい)

火除けのまじない」

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長崎 興福寺 媽祖像 写真 長崎 興福寺 写真
「順風耳(青鬼)天上聖母菩薩像(媽祖)と千里眼(赤鬼) 」
Masozou
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長崎 興福寺 鐘鼓楼 写真 長崎 興福寺 中島聖堂遺構大学門 写真
「鐘鼓楼」「中島聖堂遺構大学門」
ShokorouNakajima Seido Iko Daigaku-Mon
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長崎 興福寺 魚板(けつ魚) 写真 長崎 興福寺 魚板(けつ魚) 写真
「魚板(けつ魚)」「魚板(けつ魚)」
GyobanGyoban
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長崎 興福寺(こうふくじ)

Nagasaki Koufukuji Temple

長崎県長崎市寺町4番32号

4-32,Tera-Machi,Nagasaki-Shi,Nagasaki


興福寺は、国内最初の黄檗禅宗(おうばくぜんしゅう)の唐寺でその由来は古く、中国・明の商人 が長崎と行き来を始めた頃に渡来した中国人が、1620年ころ航海安全を祈願してこの地に小庵 を造ったことに始まります。この時代は、幕府のキリスト教禁令が厳しく、長崎在住の中国人にも キリシタンの疑いがかかったため、仏教徒であることを証明するためにも、崇福寺、福済寺、聖福 寺など、つぎつぎと唐寺を建てられたといわれています。

日本最古の石橋の眼鏡橋を架設した第二代黙子如定、南画の祖と称される第三代の逸然、さらには 明の高僧隠元隆g禅師が住職として興福寺に滞在されたころには、大きな堂宇が建ち並び、全国か ら僧や善男善女が参集して禅の一大センターとなりました。

パンフレットより


媽祖堂(まそどう)

命がけの航海をした時代、唐船には必ず海上守護神「媽祖」が祀られ、香花を供する香工、太鼓役 の直庫がこの船神に奉仕して乗り組んでいた。長崎の人びとは「媽祖」のことを船菩薩(ふねぼさ つ)と呼んだ。

媽祖は媽姐とも書き、菩薩、姫姫菩薩、天妃、天后、天后聖母などと呼ばれて尊敬をうけた。媽祖 信仰の起こりは、宋代の頃、福建省興化で幼い頃から女神と謳われていた林氏の娘が大海に没して 神となり、しばしば海難から船を救ったことによる。元代にはあらゆる船舶に祀られ、明代、海外 貿易が盛んになるにつれ、日本や東南アジア全域に伝播された。長崎に於ける唐寺は、最初、媽祖 像を安置し航海安全を祈るための媽祖堂として発足したと伝えられる。

興福寺は唐寺のなかで最も古い元和6年(1620)の創建、媽祖堂は県有形文化財、和風を基調 として中国黄檗様式をとりいれた格調の高い建築である。


順風耳(青鬼)と千里眼(赤鬼)

「媽祖」を守護して立ついかめしい風貌の二鬼神。「順風耳」は大きな耳が特徴で、あらゆる悪の 兆候や悪巧みを聞き分けて、いち早く媽姐に知らせる役目を持つ。「千里眼」は3つの目が特徴、 媽姐の進む先やその回りを監視し、あらゆる災害から媽姐を守る役目を持つ。伝説によると、この 二鬼神は、昔、悪さばかりして人びとを困らせていた妖術使いだったのを、媽祖が改心させ自分の 守護に命じて取り立てたといわれる。


媽祖行列

鎖国時代、唯一の開港地長崎は海外貿易により黄金時代を享受した。唐船は時代により異なるが、 多いときでは年間100艘あまり、通常70艘前後入港した。媽祖行列とは、唐船が入港し荷役が 終わると船中に祀る海上の守護神「媽祖像」を船から揚げて唐寺に預けることを「菩薩揚げ」、再 び船に戻すことを、「菩薩乗せ」と呼んだ。

行列には、唐人をはじめ、通事、役人に小者も加わり、ラッパやドラ、爆竹の音も賑やかに直庫振 り(てっこふり)が厄払いをしながら先導する珍奇なもので、往時の長崎人はこれを喜んで迎えた という。

この「菩薩揚げ」の儀式は明治時代。「長崎くんち」の本篭町蛇踊や大黒町の唐人船、西浜町の蛇 船に、昭和の初めには元船町の奉納踊りにも採り入れられた。


瑠璃燈

興福寺の大雄宝殿(本堂)の中央高くに掲げられている巨大な吊燈籠は江戸時代、興福寺を支えて いた豊かな唐人船主たちの献燈である。

枠組みの外面には従来の紙や絹または雲母を用いず、往時の貴族や文人に愛好された貴重な瑠璃・ 乾隆ガラスが風防となっている。

清朝末期の中国工匠の優れた技と国際都市上海の西洋趣味が、長崎で輝いていた。はるかローマを 起源とするビードロやギヤマンと呼ばれたガラス製造の技術も中国を通じて長崎で興った時代が推 察される。琉璃燈は、高さ218センチ 直径130センチ。日本に現存する最大の中国ランタン。


魚板(

正式の名称は、僧(はんぽうそう)達の飯時を告げる 為に叩く板の魚です。この魚板は、全国の禅寺にあるものの中の最優秀作と言われます。 (けつぎょ)は、揚子江にいる幻の魚を言われて います。このように雄雌一対でかかっているのは珍しく、また何百年もの間叩かれたのであの様に 腹部が凹んでおります。叩くとコーンコーンと案外遠方まで聞こえます。」

境内 案内板より


県指定史跡 興福寺寺域 

(昭和36年11月24日指定)

興福寺は、元和9年(1629)に創建されたわが国における最初の唐寺です。開基は江西省出身 の眞圓(しんえん)、寺地は元欧陽氏の別荘であった。眞圓は寛永12年(1635)まで住職を 務め、その後、二代目には眼鏡橋を架けたといわれる黙子如定(もくすにょじょう)が住職に就き ました。

承応3年(1654)三代逸然性融は、新しい禅宗の日本への伝来を熱望し、福建省黄檗山万福寺 の隠元禅師を招き、隠元を住職に推薦し、自らは監寺に下りました。明暦元年(1655)、隠元 禅師が東上すると、翌2年正月から中興二代澄一道亮(ちんいどうりょう)が住職を勤めるように なりました。

興福寺は、臨済宗黄檗派(明治9年から黄檗宗)発祥の地として記念すべき地となっています。


県指定史跡有形文化財  興福寺山門

    指定年月日  昭和34年1月9日

    所 在 地  長崎市寺町64番地

    所 有 者  興福寺

興福寺に最初に建てられた山門は、寛文3年(1663)におこった市中大火災により類焼しまし た。現存するこの山門は、元禄3年(1690)に再建されたものです。構造は三間三戸八脚門の 入母屋造で、単層屋根・総朱塗となっている壮大な門です。細部は和風であり、日本人工匠の手に なるものです。

この地は、承応3年(1654)中国から来朝した隠元隆gの初登の地であるため、門の背面梁上 には隠元筆「初登宝地」の扁額がかかっています。

長崎市教育委員会 案内板より


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