大阪天満宮(おおさか てんまんぐう)    Osaka Tenmangu Shrine    16.FEB.2001   天空仙人の神社仏閣めぐり

大阪天満宮 Official Page

天満宮・天神

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大阪天満宮 写真 大阪天満宮 写真
「大阪天満宮本殿」
Osaka Tenmangu Shrine

  
大阪天満宮 写真大阪天満宮 神牛 写真
「大阪天満宮」「神牛」
Osaka Tenmangu ShrineSingyu

大阪天満宮 写真 大阪天満宮 干支方位盤 写真
「絵馬」「干支方位盤」
EmaEto-Houi-Ban

大阪天満宮 雷 写真
「雷」
Ikaduchi

大阪天満宮(おおさか てんまんぐう)

Osaka Tenmangu Shrine

大阪市北区天神橋2−1−8

2-1-8,Tenjinbashi,Kita-Ku,Osaka

JR大阪天満宮駅

地下鉄堺筋線、谷町線「南森町」下車


大阪天満宮

大阪天満宮は、贈太政大臣正一位菅原道真公(845〜903)を主神として奉祀しております。

天暦三年(949) 村上天皇の勅願に依って大将軍社の森(後に天神の森と称せられ、現在南森町と云う)に御鎮座になり、 以後千有余年、寸尺も位置を変更することなく現在に至りました。

此の間正平二年(1342) 楠木正行と山名時氏の合戦、元亀元年(1570)の石山合戦、 天保八年(1837)の大塩の乱等に焼失しましたが、現在の本殿は天保十四年(1843)の建築でその様式は権現造であります。

寝殿造の梅花殿、百畳敷の参集殿、鉄筋コンクリート三階建の天満宮会館其の他建造物が櫛比しています。


道真公の学問

道真公は幼少の時から学問を好み、島田忠臣という学者に教えを受けられました。

五才の時に

「美しや紅の色なる梅の花、あこが顔にもつけたくぞある」

と和歌をお詠みになり、

又 十一才の時「月夜見梅花」という題で

月輝如晴雪 梅花似照星

可憐金鏡転 庭上玉芳馨

と詩作され人々を驚かせました。

道真公の最初の詩歌が梅花であり、公は生涯を通じて梅を愛好されました。

道真公の母君は深い信仰心と、教育に対する正しい考えと指導方法をもっておられました。 観音さまに日参して公の成長を祈願されましたし、 十五才の時一人前になったお祝いの儀式である元服の時、 「久方の月の桂も折るばかり家の風をも吹かせてしがな」 という歌を与えて、前途を祝福し励まされましたので、益々勉学を励み 後には文章博士の学位を得られました。


讃岐守の仁政

道真公は四十二才から四十六才まで国守として讃岐(香川県)におられました。 ある時疫病が流行しましたが、公は医師を連れて家毎に訪問し予防治療に努力し、 さすがの疫病もすっかり影をひそめました。

又、ある年国内に飢饉がありましたが、この時、公は朝廷の許しを待たず、 倉庫を開いて、米を窮民に施しました。後で朝廷に報告しましたが、 公の正しい処置にお褒めの言葉を賜わりました。

仁和四年には、久しい間雨が降らず、農家の人々は旱魃に苦しみました。 公は身を清めて城山の神に雨をお祈りになりますと、公の誠の心が天に通じたのか、 沛然と雨が降り、人々を救ったということです。


天神祭

七月二十五日に行われる日本三大祭の一、天神祭の当日は参拝者が終日境内に溢れ、 同日夜大川に繰りひろげられる水上祭は、大阪市民祭の名に反かず百余艘の供奉船が水上を埋め、 空には花火、河面には篝や提灯の海で華麗を極め百余万の拝観者を魅了します。

大阪天満宮の栞 より


登龍門

当宮は天保8年(1837年)の大塩の乱で本殿及び多くの社殿が焼失し、 その後弘化2年(1845年)に再建され現在に至っております。

その当時から東・西唐門両側に鯉に龍の図柄の金燈籠がありましたが戦前の金属の供出でなくなり台座を残すのみとなっておりました。

この度菅原道真公千百年大祭記念として篤志の方の奉納により昔ながらの図柄の燈籠が再現されることとなりました。

屋根の部分は威勢よく跳ね上がる鯉胴体には龍が巻き上がり逆巻く水面から天空をめざし舞い上がろうとしている雄姿は一見奇異に見えますが、 この唐門こそ登龍門そのものでありますというのも、 龍門は中国の黄河上流で鯉などがその下に集まり多くは登り得ないが登れば龍になるという故事に基づいています。 それが転じてそこを通り抜ければ必ず出世するといわれる関門の意となります。


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