小樽 龍宮神社(おたる りゅうぐう じんじゃ)    Otaru Ryuguu Jinja Shrine    16.May.2003  天空仙人の神社仏閣めぐり


小樽 龍宮神社 小樽 龍宮神社
「龍宮神社」「扁額」
Ryuguu JinjaHengaku
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小樽 龍宮神社 小樽 龍宮神社
「狛犬」
Koma-inu
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小樽 龍宮神社(おたる りゅうぐう じんじゃ)

Otaru Ryuguu Jinja Shrine

小樽市稲穂3丁目22−11

3-22-11,Inaho,Otaru-shi,Hokkaido


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明治2年、榎本武揚は小さな祠(ほこら)を設けて榎本家の遠い祖先である 桓武天皇をお祀りし、明治9年北海道移民の心がやすまることを願って「北 海鎮護」の額を献納した。

明治19年4月江差町から海神として信仰のあつい龍宮教会分所を当地に移 転し、この祠(ほこら)に合併し、龍宮殿と称した。 明治30年6月大和田津美神社(おおわだつみ じんじゃ)と公称すること を許された。同31年4月龍宮神社と改称し、現在に至っている。


榎本武揚の生い立ちと人なり

榎本武揚は天保七年(1836)8月26日江戸下谷御徒町柳川横町(現在 ・台東区小島)に生まれた。父は、榎本円兵衛武規といって五人扶持55俵 を給された直参旗本である 武揚は二男だが父がつけた初名は釜次郎である。

長じてオランダ帰国後は和泉守と称し梁川の号を用いた。 嘉永7年(安政元年 1854)幕府目付堀利煕に従って西蝦夷地(北海道 西北部)から樺太に渡り東南部を経て箱館(現函館)にもどった。(19歳の時)

文久2年(1862)榎本のほか七人でオランダに渡って海軍操練・航海学 などを学びフランスやイギリスにも渡りハーグ大学教授フレデリックスから 海上国際法の個人講義をうける。 やがて開陽丸と命名された軍艦はでき上り1866年(慶応2年)10月そ の開陽丸に乗り南米を経由しアフリカへ返してインド洋を経て慶応3年3月 横浜に着いた。 またオランダ語、ドイツ語・英語など当時大変な語学力を身につける。 (32歳のとき)

彼が帰国した慶応3年10月将軍慶喜は大政を奉還したが討幕を主張する薩 長派は幕府側を挑発し ついに 翌年正月鳥羽・伏見の戦いに敗れ慶喜は開 陽丸に乗って江戸に帰り徳川家の体制立て直しを考え新しい人事を決めた。

陸軍総裁に勝海舟・海軍副総裁に榎本武揚ほかである。

幕府崩壊後榎本は北地行きが朝廷への反抗ではなく徳川家失禄の士を救うた めの蝦夷地の開拓と露寇に備え国益に奉じることが目的であることを力説し、 敗走してきた陸軍の混成軍約3000名と共に10月20日蝦夷内浦湾の鷲 ノ木沖に集結したが使者ら一行が新政府軍に発砲され ついに箱館戦争が勃 発する。五稜郭・松前城を攻略して11月には蝦夷島を平定する。その間軍 艦開陽丸は暴風で江差沖に全壊沈没する。 翌明治2年4月新政府軍の陸海両方からの大反撃があり ついに榎本軍は5 月18日五稜郭を明け渡して新政府軍の軍門に降る。

37歳の時(明治5年3月)放免され すぐに北海道の開拓使に出仕する。 放免には黒田清隆が頭を剃ってまで奔走した。明治6年12月帰京後は海軍 中将・特命全権公使・露国公使館在勤を命ぜられ千島樺太交換条約を締結し た。のち逓信・農商務・文部・外務など要職をこなし北海道や海外の植民策 に貢献する。

明治41年(1908)10月26日 73歳で没し駒込吉祥寺に葬られた。


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