三芳町 多福寺(たふくじ) Tafukuji Temple 21.April.2010 天空仙人の神社仏閣めぐり
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「総門」 | 「山門」 |
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Sou-mon | San-mon |
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「本堂」 | 「山門」 |
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Hondou | San-mon |
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「鐘楼堂」 | 「元禄の井戸」 |
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Shouroudo | Genroku no Ido |
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「多福寺 寺号額」 | 「寺紋 花菱」 |
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Jigo-Gaku | Jimon |
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埼玉県入間郡三芳町上富1542
1542,Kami-tomi,Miyoshi-Cho,Iruma-Gun,Saitama
多福寺 三富山多福寺は、臨済宗(禅宗)京都妙心寺派の寺で、元禄9年(1696)川越藩主柳沢吉保により開拓農民の菩提寺として、 上富地蔵林の中に建立された。 本堂と庫裡は、建立以来2度の火災にあい、現在のものは、明治3年(庫裡)同16年(本堂)に再建されたものである。 境内は、総門からまっすぐのびた参道と、その先に建立された山門には十六羅漢が人々の喜怒哀楽の表情を湛えて安置されており、 元禄の銅鐘(埼玉県指定文化財)、天保時代の穀倉、開拓当時の井戸が残されている。 また、本堂裏の庭園は元禄期の造園になる枯山水で、訪れる人を静寂の中へ誘ってくれる。 埼玉県 三芳町 境内 案内板より 元禄の井戸 元禄の井戸とは、上富に、元禄時代(1688〜1703)に掘られた井戸のことである。 当時、川越城主であった、柳沢美濃守吉保が、重臣であった曽根権太夫貞刻に命じて三富(上富・中富・下富)の開拓をおこなった。 開拓の時、一番大きな問題とされたのが、飲用水であったという。 そこで、柳沢吉保は、上富地区に4ヵ所の井戸を掘ったが、完全に水は出ず、真夏の時などは、 竹間沢村の下を流れる柳瀬川などから、水を桶に入れて運び、それで生活していたことも幾度もあったという。 現在、当時に掘られた井戸で、今日も残されているものとしては、多福寺境内にあるのみで、ほとんどが、くずれたり、うめたりして見られなくたってしまった。 多福寺の井戸は、当時”甘露水”と呼ばれ、人々ののどをうるおした。
臨済宗妙心寺派の寺で本尊は釈迦如来。 多福寺は元禄7年1月(1694)川越城主となった柳沢吉保が 三富地区(三芳町大字上富と所沢市大字中富及び下富の3部落を総括した地域)で利権争いがおこっていたのを検地をして境界の所属を明確にして元禄7年7月に境界論争を解決した。 この後、三富の開拓に着手した。 柳沢は、入植した農民達の精神的安住の拠り所として、菩提寺として多福寺、祈願寺として多聞院の二寺院を創建した。 三富山多福寺は臨済宗妙心寺派に属し、元禄九年(1696)に建立され、 同年8月に江戸麻布東北寺の吉保の参禅師洞天恵水大和尚を拝請して開山とした。 創建二世の吉保公の異母弟 虎峰玄章大和尚は、寺領3600石を付すことに、将来住持する者の怠慢の基となるとしてついに受けず、仏餉米として年々白米百俵宛を賜わった。 以降、多聞院と共に柳沢の姓と、吉保の「郡山花菱」の家紋が与えられた。当時は境内地約12万坪の大寺。 これまで2度の災火に遇ったが、仏像、経巻、什宝等無事に保管され明治16年(1883)本堂が再建され現在に至っている。 惣門、扇額(柳沢伸鴻筆)、十六羅漢、銅鐘など見所たっぷり。
正月の5日間のみ、遠州流東好枯山水の庭園を拝観できる。(有料)
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