千本釈迦堂 大報恩寺    (せんぼんしゃかどう だいほうおんじ)      Senbon Shakado (Daihoon-ji) Temple          天空仙人の神社仏閣めぐり

千本釈迦堂 大報恩寺 Official Page

千本釈迦堂の桜


千本釈迦堂 大報恩寺 写真
「千本釈迦堂」

千本釈迦堂 大報恩寺 写真 千本釈迦堂 大報恩寺 写真
「千本釈迦堂」「北野経王堂 願成就寺」
Senbon Shakado
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千本釈迦堂 大報恩寺 写真 千本釈迦堂 大報恩寺 写真
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千本釈迦堂 おかめ塚 写真 千本釈迦堂 阿亀多福像 写真
「おかめ塚」「阿亀多福像」
Okame-zukaOkame-Tafuku-zou
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千本釈迦堂 大報恩寺 ぼけ封じ観音像 写真 千本釈迦堂 大報恩寺 布袋尊 写真
「ぼけ封じ観音像」「布袋尊」
Boke-fuuji-kannonHotei-son
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千本釈迦堂 大報恩寺 阿亀桜 写真 千本釈迦堂 大報恩寺 写真
「阿亀桜」
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千本釈迦堂 大報恩寺 ぼけ封じ息災延命お守り 写真
「ぼけ封じ息災延命お守り」
Boke-fuuji Sokusai-Enmei-Mamori
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千本釈迦堂 大報恩寺(せんぼんしゃかどう だいほうおんじ)

Senbon Shakado (Daihoon-ji) Temple

京都市上京区今出川七本松上ル

Sichihonmatsu-Agaru,Imadegawa,Kamigyo-ku,Kyoto


大報恩寺は藤原秀衡の孫と伝える義空上人の開創。真言宗智山派の名刹。 本堂(国宝)は1227年(安貞元)創建時のままで、京洛最古の古建築。

本尊釈迦如来坐像(重文)のほか霊宝殿に快慶作の十大弟子像をはじめ、六観音像など多くの文化財を常時展示(有料)。 2月はお亀の福にあずかる‘おかめ節分’で、12月7・8日は諸病封じの大根焚きで賑わう。 建立:1227(安貞元)年12月26日 大堂の上棟建立(現本堂)


瑞応(ずいおう)山と号する真言宗智山派の寺院で、千本釈迦堂の名で知られている。  

承久3年(1221)義空(ぎくう)上人が、藤原光隆(みつたか)の臣、岸高より寄進を受けたこの地に、 小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが当寺の起りといわれている。 当初、倶舎、天台、真言の三宗の霊場として、堂塔迦藍も整い、壮麗を極めたが、応仁の乱をはじめ、 度々の災火のため堂宇を消失してしまった。  

現在唯一残る本堂(釈迦堂)は、本市に現存する最古の仏堂遺構で、国宝に指定されてい る。 堂内には、行快作の本尊釈迦如来坐像及び、快慶作の木造十大弟子立像をはじめ、銅像誕生釈迦仏立像、六観音菩薩像、 千手観音立像などを安置している。  

また、毎年、2月にはお亀福節分会、5月には花供養、7月には陶器供養、8月には精霊迎え、 12月には大根焚きなど多彩な行事が営まれ、多くの人々で賑わう。

境内 京都市 案内板より


北野経王堂願成就寺

このお堂は、足利三代将軍義満が、明徳2年(1391)11ヶ国の大領主陸奥大守山名氏清が将軍家に叛いて兵をあげたが(明徳の乱) 逆に義満により内野の原に於いて討滅せしめられた。

将軍義満は、その翌年、叛いたとは言えかつての功労武勲を思い氏清とその一族、あるいは戦いに倒れた敵、味方兵士の追福のため、 壱千百人の僧侶を集めて供養せしめ、引続き応永8年に北野社の社頭に、東山三十三間堂の倍半という大堂を建立し、 「北野経王堂願成就寺」と名ずけ毎年10月、10日間に亘って万部経会並経典書写などの仏事を行い供養した。 この行事は「北野経会」と呼ばれ、京洛の最大行事となり、代々の幕府によって踏襲された。

なお、応永期には大部の経典「北野社一切経五千五百余巻」(重要文化財)を書写奉納せしめた。 観世謡曲「輪蔵」はこの一切経の「輪蔵」を謡ったものである。 この大堂も江戸期に入り荒廃甚だしく遂に寛文11年に解体縮小されて小堂となり、 仏像並、一切経五千余巻、義満筆「経王堂額」什宝遺物の一部が本寺である当山に移され現在霊宝殿(収蔵庫)に保存されている。(重要文化財)

又解体された遺構の木材は当山に運ばれ復元、縮小されたのがこのお堂である。 堂の右前に、山名氏清の碑が建てられている。

境内 案内板より


おかめ塚由来

鎌倉時代の初め西洞院一條上るの辺りで長井飛騨守次という洛中洛外に名の聞こえた棟梁とその妻阿亀が住んでいました。 そのころ、義空上人(藤原秀衡の孫)が千本釈迦堂の本堂を建立することになり、 次が総棟梁に選ばれ造営工事は着々と進んでいきましたが、 次ほどの名人も”千慮の一失”というべきか信徒寄進の四天柱の一本をあやまって短く切り落としてしまったのです。 心憂の毎日を過ごしている夫の姿を見た妻の阿亀は古い記録を思い出し、 「いっそ斗供(説明文は「木+共」の字)をほどこせば」というひと言。 この着想が結果として成功をおさめ見事な大堂の骨組みが出来上がったのです。

安貞元年12月26日、厳粛な上棟式が行われたが、此の日を待たづしておかめは自ら自刃して果てたのです。 女の提言により棟梁としての大任を果たし得たという事が世間にもれきこえては・・・ 「この身はいっそ夫の名声に捧げましょう」と決意したのです。

次は上棟の日、亡き妻の面を御幣につけて飾り、冥福と大堂の無事完成を祈ったといわれ、 また、この阿亀の話を伝え聞いた人々は貞淑で才智にたけた阿亀の最期に同情の涙を流して菩提を弔うため境内に宝筐院塔を建立し、 だれ言うとなくこれを「おかめ塚」と呼ぶようになったのです。

現在、京都を中心として使用されているおかめの面の上棟御幣は阿亀の徳により、 ”家宅の火災除け”家内安全と繁栄を祈って始められたものです。 また、おかめの徳は、”災いを転じて福となす”というところから、建築成就工事安全、 女一代厄難消滅、商人の商売繁栄などの招福信仰として全国を風靡するところとなっています。

なお、昭和54年の春、有志により阿亀の大像が造立され福徳の像として祀られ”おかめ信仰”の輪が一層広がっております。

瑞応山 千本釈迦堂 大報恩寺


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