新宿十二社 熊野神社     (じゅうにそう くまのじんじゃ)      Jyuuniso Kumano Jinja Shrine    9.Oct.2006        天空仙人の神社仏閣めぐり

新宿十二社 熊野神社 Official Page
新宿十二社 熊野神社 鳥居 写真 新宿十二社 熊野神社 新宿十二社 熊野神社 写真
「鳥居」「新宿十二社 熊野神社」
ToriiJyuuniso Kumano Jinja
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新宿十二社 熊野神社 拝殿 写真 新宿十二社 熊野神社 社号額 写真
「拝殿」「社号額」
HaidenShagou-Gaku
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新宿十二社 熊野神社 写真 新宿十二社 熊野神社 写真
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新宿十二社 熊野神社 狛犬 写真 新宿十二社 熊野神社 狛犬 写真
「狛犬」「狛犬」
Koma-inuKoma-inu
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新宿十二社 熊野神社 写真 新宿十二社 熊野神社 写真
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新宿十二社 熊野神社 開運 熊野のぼり 写真 新宿十二社 熊野神社 こいづか 写真
「開運 熊野のぼり」「こひづか」
Kumano-NoboriKoi-Duka
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新宿十二社 熊野神社(じゅうにそう くまのじんじゃ)

Jyuuniso Kumano Jinja Shrine

東京都新宿区西新宿2−11−2

2-11-2,Nishi-Shinjuku,Shinjuku-Ku,Tokyo


十二社と熊野神社の歴史

十二社の熊野神社は、室町時代の応永年間(1394〜1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、 故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます (一説に、この地域の開拓にあたった渡辺興兵衛が、天文・永禄年間(1532〜69)の熊野の乱に際し、 紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったともいいます)。

鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、 奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。

九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祠りました。 その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祠ったといいます。

江戸時代には、熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。

また、享保年間(1716〜1735)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、 滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。

明治維新後は、現在の櫛御気野大神・伊邪奈美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。

氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。

境内 案内板より


熊野神社の文化財


新宿区指定史跡

十二社の碑

ここ十二社の地が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永4年(1 851)3月に建てられました。

高さ210cm、幅119cm、幕末期に江戸市中の様子を記した「江戸繁盛記」を著した儒学者 寺門静軒と、中野宝仙寺の僧侶負笈道人により、当時名高かった景勝地十二社の様子を紹介したも ので、表面には負笈道人の撰になる碑文と、寺門静軒による漢詩が刻まれており、字数は262字 あります。

また裏面は、負笈道人の略歴と人柄を、寺門静軒が記したもので字数は、286字に及びます。

なお、書は中川憲齋(日本書堂・大彭を号する)1こよるものです。


新宿区指定有形文化財

七人役者図絵馬

安永2年(1773)4月に、当時の若手歌舞伎役者の吾妻富五郎と大谷谷次が奉納した大絵馬で、 拝殿内に掲げられています。

板地着色で、縦136cm、横180cm、図柄は桜の大木の下に七人の歌舞伎役者の扮装姿と十 二支の動物が描かれています。

図中の役者は、前列右から大谷谷次・大谷広次・市村亀蔵・大谷永介、後列右から大谷仙次・吾妻 富五郎・尾上民蔵の7名で、当時の市村座で人気を博した役者たちです。

この絵馬の作者一筆齋文調は、江戸時代中期、明和から寛政にかけて、優れた役者絵を描いて活躍 した浮世絵師です。


新宿区指定有形文化財

式三番奉納額

上部に式三番の図が描かれている奉納額で、拝殿内に2枚が掲げられています。向って右側は宝暦 14(1764)に九代目市村羽左衛門が、左側は弘化4年(1847)に十二代目市村羽左衛門 が、それぞれ奉納したもので、ともに板地着色、縦90.7cm、横31.4cmあります。

図柄は、江戸三座のひとつ市村座で、11月の顔見世興行と正月の初春興行に、初日から3日間演 じられた式三番を描いたもので、座元の羽左衛門自身が翁を演じるのに因んで奉納されたようです。

式三番は、歌舞伎舞踊のひとつで、祝賀や追悼の時に行われた能の「翁」を舞踊化したものです。


新宿区指定有形文化財

大田南畝の水鉢

文政3年(1820)に奉納された水鉢で、江戸時代後期の狂歌師として有名な大田南畝(蜀山人) (1749〜1823)の書による銘文が刻まれています。

文政3年の熊野神社の祭礼には、大池で角乗・筏乗が出るなど盛大なものでしたが、この水鉢もそ の祭に奉納されたものと思われます。

鉢の大きさは、外部が幅150cm、高さ60cm、奥行64cm、内部の鉢の部分は幅126c m、深さ23cm、奥行40cmあります。


神輿蔵

神社の宮神輿(大神輿)と、熊野神社の氏子の組織である睦の町神輿(大人神輿と子供神輿)が保 管されています。宮神輿は、昭和3年(1928)に十二社と淀橋の氏子により製作されたもので、 大祭に巡幸します。


狛犬

本殿裏の末社大鳥三社にある狛犬で、腹の下がくりぬきになっていない珍しいものです。享保12 年(1727)「角筈村上野百姓店児講中」により寄進されたものです。

島川玄丈人壽兆碑

紀州徳川家の侍医で、鍼術の大家島川草玄の長寿を祝って、紀州藩士川合衡の撰文により、文化4 年(1807)に造られたものです。

能勢嘉門賛碑

「滝津冷々一千尺 松樹森々十二層 司馬乃屋嘉門」

「蝉の声 しくれて細し滝の糸 よれば暑さも 那智の悌 山陽堂竹友」

十二社の滝と周囲の風景をたたえた記念碑です。


延命陀羅尼二千一百万遍読誦碑

元治元年(1864)に延命陀羅尼経を唱えたことを記念して建てられた記念碑で、神仏習合の時 代を物語る資料です。


十二社の池

十二社の池は、慶長11年(1606)伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小2つの池を開発した もので、現在の熊野神社西側、十二社通りをへだてて建つ三省堂ビル・後楽園ビルのあたりにあり ました。

大池(中池・上の溜井)は南北126間・東西8〜26間とされ、水源は湧水であったようです。

池の周囲には享保年間(1716〜35)より多数の茶屋ができ景勝地として賑わいました。明治 時代以後は、大きな料亭かでき花柳界として知られるようになり、最盛期には料亭・茶屋約100 0軒、芸妓約300名を擁したほか、ボート・屋形船・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われまし たが、昭和43年(1968)7月に埋立てられました。

大池の北側に隣接する小池(下池、下の溜井)は、大池の分水で、南北50間・東西7〜16間あ りました。昭和初期より一部の埋立てが行われ、第2次大戦中には完全に埋立てられました。


十二社の滝

十二社には、記録や古老の話からい<つかの滝があったことが伝えられています。

このうち十二社の大滝は、「江戸名所図会」「江戸砂子」などに熊野の滝・萩の滝と記された滝で、 高さ三丈・幅一丈と伝えられます。この滝は寛文7年(1667)」に神田上水の水量を補うため 玉川上水から神田上水に向け造られた神田上水助水堀が、熊野神社東端の崖から落ちるところにで きたものです。

池とともに景勝地として知られたもので、明治時代の落語家三遊亭円朝は自作の「怪談乳房榎」の 中で、この滝を登場させています。

滝の多くは、明治以後、淀橋浄水場の工事などにより埋立てられました。


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