太宗寺  (たいそうじ) TAISO-JI  16.JULY.1997 & 11.OCT.2004 神社仏閣めぐり


閻魔堂 布袋尊堂

「閻魔堂」

「布袋尊堂」

ENMA DOHOTEISON DO
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閻魔大王塩地蔵

「閻魔大王」

「塩地蔵」

ENMA DAIOUSHIO JIZO
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江戸六地蔵

「江戸六地蔵

銅造地蔵菩薩坐像」

「江戸六地蔵

銅造地蔵菩薩坐像」

EDO ROKU-JIZOEDO ROKU-JIZO
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切支丹燈籠

「切支丹燈籠」

KIRISHITAN TORO
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閻魔大王 閻魔大王

「閻魔大王」

「閻魔大王」

ENMA-DAIOUENMA-DAIOU

奪衣婆尊 奪衣婆尊

「奪衣婆尊」

「奪衣婆尊」

DATSU-EBA-SONDATSU-EBA-SON


太宗寺 (たいそうじ)

TAISO-JI 

東京都新宿区新宿2丁目9−2

2-9-2,SINJUKU,SHINJUKU-KU,TOKYO

TEL. 03-3356-7731


甲州道中と内藤新宿

 甲州道中(甲州街道)は、徳川家康が慶長・元和年間に整備を行った 五街道(ほかに東海道・中仙道・奥州道中・日光道中)のひとつで、 江戸から甲府を経て下諏訪で中仙道に合流します。

 この街道の最初の宿場は高井戸(現杉並区)でしたが、日本橋を 出発して四里八丁(16.6km)もあったため、人馬ともに不便でした。

 そこで浅草阿部川町(現元浅草四丁目)に住む名主喜兵衛(のちの高松喜六)は、 元禄10年(1697)に同志4名ととも、太宗寺の南東に宿場を開設するよう、 幕府に願いを出しました。

なぜ喜兵衛らが宿場開設を願い出たのか、その理由はわかっていませんが、 5人は開設に際し運上金5600両を納めることを申し出ました。

 この願いは翌元禄11年(1698)6月に許可となり、幕府は宿場開設の用地として、 譜代大名内藤家の下屋敷(現新宿御苑)の一部や旗本朝倉氏の屋敷地などを返上させて、 これにあてました。

 こうして「内藤新宿」は、元禄12年(1699)2月に開設のはこびとなり、 同年4月には業務を開始しました。善兵衛らも移り住み、名主などをつとめ町政を担当しました。

 宿場は東西九町十間余(約999m)、現在の四谷4丁目交差点(四谷大木戸)から 伊勢丹(追分と呼ばれ甲州道中と青梅街道の分岐点であった)あたりまで続いていました。

 宿場は大きく3つにわかれ、大木戸側から下町・仲町・上町と呼ばれました。  太宗寺の門前は仲町にあたり、本陣(大名・公家・幕府役人などが宿泊・休息する施設)や 問屋場(次の宿場まで荷を運ぶ馬と人足を取り扱う施設)などがありました。

「内藤新宿」は、江戸の出入口にあたる四宿(品川・板橋・千住・新宿)のひとつとして 繁栄しましたが、その繁栄を支えたのが旅籠屋でした。 ここには飯盛女と呼ばれる遊女が置かれましたが、元禄15年(1702)には当時幕府公認の 遊興地であった吉原から訴訟が出されるほど繁昌しました。

 このように大変な賑わいをみせた「内藤新宿」でしたが、享保3年(1718)には 開設後わずか20年にして、宿場は廃止となります。  これは、利用客の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き入れたことなどが 原因といわれますが、八代将軍徳川吉宗の「享保の改革」に伴う風俗統制の影響もあったようです。  その後、度重なる再興の願いにより、明和9年(1772)に宿場は再興されました。


太宗寺の創建と内藤家

 太宗寺は、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、慶長元年(1596)頃にさかのぽると伝えられています。  太宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永6年(1629)内藤家第五代正勝逝去の際には、葬儀一切をとりしきり、墓所もこの地に置くことになりました。  これが縁で、寛文8年(1668)六代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが、現在の太宗寺です。

 内藤家は七代清枚以後は歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれています。

 また「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれた 閻魔大王と奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わいました。 現在も、毎年お盆の7月15・16日には、盆踊りとともに閻魔像・奪衣婆像の御開扉、曼陀羅・十王図・涅槃図の公開が行われています。 なお、寺号「太宗寺」は、創建時の庵主太宗の名をいただき、山号「霞関山」は、当時四番大木戸一帯が霞ヶ関と呼ばれていたことに因み、院号「本覚院」は内藤正勝の法名「本覚院」を拝しています。浄土宗の寺院です。


太宗寺の文化財


東京都指定有形文化財(彫刻)

◆銅造地蔵菩薩坐像

 銅像で像高は267cm。深川の地蔵坊正元が発願した「江戸六地蔵」の3番目として正徳2年(1712)に造立されたもので、製作者は神田鍋町の鋳物師太田験河守正儀です。  なお、像内には小型の鋼造地蔵6体をはじめ、寄進者名簿などが納入されていました。 「江戸六地蔵」各像には寄進者の名前が刻まれており、その合計は72,000名以上におよんでいます。 「江戸六地蔵」品川寺(品川区)・東禅寺(台東区)・真性寺(豊島区)・霊巌寺(江東区)・永代寺(江東区・地蔵は現存しない)・太宗寺


新宿区指定有形民俗文化財

◆閻魔像

木造で、総高は550cm。文化11年(1814)に安置されたもので、製作もその 頃と推定されます。 江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰をあつめた像で、かつては薮入り(1月と7月の16日に商家の奉公人が休暇をもらえる日)に縁日が出て賑わいました。 また、弘化4年(1847)3月5日には泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起り、 錦絵になるなど江戸中の評判になりました。


新宿区指定有形民俗文化財

◆奪衣婆像

木造で、総高は240cm。明治3年(1870)の製作と伝えられます。 奪衣婆は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽重を計るとされ、この像でも右手には亡者からはぎ取った衣が握られています。また、衣をはぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として信仰されました。


新宿区登録有形文化財(歴史資料)

◆切支舟灯籠

昭和27年(1952)に内藤家墓所から出土した織部型灯籠の竿部分(脚部)で、現在は上部の笠・火袋部分も復元し補われています。 石質は白みがげ石で、江戸時代中期の製作と推定されています。 切支丹灯籠は江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタンがひそかに礼拝したとされ、織部型灯籠(安土桃山〜江戸初期の大名・茶人古田織部が好んだ灯籠)の全体の形状は十字架を、竿部の彫刻はマリア像を象徴し、マリア観音とも呼ばれます。

内藤新宿 太宗寺の文化財 パンフレットより


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