高岡大仏(たかおか だいぶつ)      Takaoka Daibutsu       6.JAN.2005  天空仙人の神社仏閣めぐり

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「高岡大仏」「高岡大仏」
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高岡大仏(たかおか だいぶつ)

Takaoka Daibutsu

富山県高岡市大手町11番29号

11-29,Oote-Machi,Takaoka-Shi,Toyama


高岡大仏の由来

およそ780年前、摂津国多田(兵庫県)に住む源義勝が承久の乱をさけ、入道して越中 に移り、二上山麓で護持してきた丈八寸の金銅仏を腹中に納めた一丈六尺の木造大仏を造 営したのが高岡大仏の始まりと伝えられています。その後330年を経た天文弘治の頃、 神保安芸守が守山城を築き、この大仏を鎮守仏と崇めました。 慶長十四年(1609)前田利長公が高岡に築城の折、現在地(大手町)に移されました 。その後150年を経て荒廃、坂下町極楽寺第十五世等誉上人はこれを憂え、弟子の良歓 を勧進職として延享二年(1745)9月再建されました。

以来、高岡町民に親しまれてきましたが、文政四年(1821)6月の大火で類焼、腹中の 金銅仏のみが焼失を免れました。その後、極楽寺第二十六世譲誉上人が発願、田中源右衛 門・津幡屋太兵衛・桶屋又治郎らが住職を助けて再建に奔走、天保12年(1841)木 造一丈六尺の坐像が建てられました。光背の舟御光の頂上に三重の宝塔を据え、この中に 火中出現の金銅仏を安置、光中の左右に十二光仏を並べ、更に全面に千体仏が配されまし た。

しかし、明治33年(1900)6月の高岡大火で再び焼失してしまいました。信徒の世話 頭、松木宗左衛門は大仏の復元を一生の悲願とし、極楽寺第三十一世良禅上人と結び、さ らに時の県知事の勧奨もあり、不燃の大仏の鋳造を発願、荻布宗四郎らの協力により、昭 和7年(1932)12月に完成、翌年五月に開眼式が盛大に挙行されました。昭和56 年(1981)に多くの有縁の篤志家により坐像の大修理が行われました。

大円輪光背

昭和33年(1958)9月建載された円輪光背には、阿弥陀如来の恩徳を讃える無量寿 経に説く十二光仏を配する予定でしたが、重み等の理由で阿弥陀仏の仏徳を一字で表現す る(キリーク)という梵字が頂点に配されています。

大仏台座下回廊

回廊の中央部に明治時代の木造大仏の尊顔が安置され、周囲には、円光背に掛ける予定で 鋳造された十二光仏が配されています。また回廊の内壁に掛けてある十三枚の仏画は、昔 末広町通りにあった樹齢数百年の神木「七本杉」の古材を使って、当市にゆかりの画家達 が描いたものです。平成3年8月、十三枚の仏画の修復が行われ、面目を一新しました。

時鐘

江戸時代にはまだ時計が普及していなかったので、町民に時を知らせる必要から、高岡町 奉行寺島蔵人が時鐘の鋳造を計画し、金屋町が前田利長公以来の厚い保護に報いるため願 い出て、文化元年(1804)に完成し据えつけられました。 しかし間もなく割れ目が生じ、鍋屋仁左衛門が高岡銅器の名にかけて自ら私財を投じ、文 化三年に完成しました。鐘面に儒学者皆川淇園筆による銘がきざまれています。 (坂下町極楽寺の資料による)

日本三大仏の始まり

奈良大仏は天平勝宝四年(752)、高岡大仏は承久三年(1221)頃、鎌倉大仏は寛元四 年(1246)に創建され、いずれも非常に長い歴史があります。 そのうち大円輪の光背がそび之る高岡大仏のお姿は世に珍しく、また手印は阿弥陀定印で、 右手を左手の上に置き、人差し指を立て、親指をその指頭につけた阿弥陀如来の結ぶ印で す。極楽往生の仕方に九っの区別があり、阿弥陀如来の形姿にも九種あるとされ、上品、 中品、下品と、それぞれに上生、中生、下生の三種があり阿弥陀定印はその中の上品上生 にあたります。 現高岡大仏は原型・鋳造とも高岡工人の手によるもので380余年の伝統を誇る高岡銅器 の象徴的なお姿として、仰ぎ見る私達に優しく慈眼を注いでおられます。

高岡大仏 パンフレットより


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