達谷西光寺(たっこく せいこうじ)
       Takkoku Seikoji Temple 
            1.JUNE.2003
                   天空仙人の神社仏閣めぐり
達谷西光寺 Official Page

毘沙門天

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達谷西光寺 二の鳥居 達谷西光寺 窟毘沙門堂
「二の鳥居」「窟毘沙門堂」
NI NO TORIIIWAYA BISHAMON-DO
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達谷西光寺 岩面大仏 達谷西光寺 窟毘沙門堂
「岩面大仏」「窟毘沙門堂」
GANMEN-DAIBUTSUIWAYA BISHAMON-DO
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達谷西光寺 不動堂 達谷西光寺 絵馬
「不動堂」「絵馬」
FUDO-DOEMA
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達谷 西光寺(たっこく せいこうじ)

Takkoku Seikoji Temple

岩手県西磐井郡平泉町平泉字北澤16

16,Kitazawa,Hiraizumi,Hiraizumi-Cho,Nishi-Iwai-Gun,Iwate


達谷窟毘沙門堂縁起

約そ千二百年の昔、悪路王・赤頭・丸等の蝦夷がこの窟に塞を構え、 良民を苦しめ女子供を掠める等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。 そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麻呂公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された。

対する悪路王等は達谷窟より三千余の賊徒を率い駿河国清見関まで進んだが、 大将軍が京を発するの報せを聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守りを固めた。 延暦二十年(801年)大将軍は窟に籠る蝦夷を激戦の末打ち破り、悪路王・赤頭・丸の首を刎ね、 遂に蝦夷を平定した。 大将軍は戦勝は毘沙門天の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台造を模ねて九間四面の精舎を建て、 百八躰の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所として窟毘沙門堂と名付けた。 そして延暦二十一年(802年)には別當寺として達谷西光寺を創建し、奥眞上人を開基として東西三十余里、 南北二十余里の広大な寺領を定めた。

降って前九年後三年の役の折には源頼義公・義家公が戦勝祈願の為、寺領を寄進し、 奥州藤原氏初代清衡公・二代基衡公が七堂伽藍を建立したと伝えられる。 文治五年(1189年)源頼朝公が奥州合戦の帰路、毘沙門堂に参詣され、その模様が「吾妻鏡」に記されている。 中世には七郡の太守葛西家の尊崇厚く、延徳二年(1490年)の大火で焼失するが、直ちに再建された、 戦国時代には東山の長坂家より別當が赴き、多くの宗徒を擁したが、天正の兵火に罹り、 岩に守られた毘沙門堂を除き、塔堂楼門悉く焼失した。 慶長二〇年(1615年)伊達政宗公により毘沙門堂は建て直され、爾来伊達家の祈願寺として寺領を寄進されていた。

昭和二十一年隣家から出火。御本尊以下二十数躰を救い出したが毘沙門堂は全焼した。 昭和三十六年に再建された現堂は創建以来五代目となる。 内陣の奥に慶長二十年伊達家寄進の厨子を安置し、慈覚大師作と伝えられる御本尊・吉祥天・善膩子童子秘佛として収める。 次の開帳は平成二十二年となる。

毘沙門天は虎年の守本尊である。また軍神であり悪鬼を拂い、財宝・官位・知恵・寿命等の福を招き、 諸々の願いが叶うとされ、毘沙門講を結び参詣する人々が後を断たない。 毎月三日の月例祭、春秋の大祭を始め多くの祭事があるが、 特に正月一日から八日迄行われる修正會は慈覚大師から恵海大和尚が伝え、千年余も続く神事である。   

境内 案内板より


岩面大仏

毘沙門堂西方の約そ10丈(約33m)にも及ぶ大岩壁に刻まれた磨崖佛は、 前九年後三年の役で亡くなった敵味方の諸霊を供養する為に陸奥守源義家公が馬上より弓達谷 西光寺 ショウ(ゆはず)を以って 彫り付けたと伝えられている。 この大佛は高さ55尺(約16.5m)、顔の長さ12尺(約3.6m)肩巾33尺(約9.9m) 全国で五指に入る大像で、「北限の磨崖佛」として名高い、 元禄9年(1696年)の記録に「大日之尊體」(岩大日)その後岩大佛と記され、 現在は岩面大佛と呼ばれている。

猶、尊名は岩大日の記録から大日如来とする考えもあるが、拙寺では昔から阿彌陀佛の名号を唱えており、 戦死者追善の伝説からも阿彌陀如来とするのが正しいと思われる。 その証左として岩面大佛の下に立つ「文保の古碑」(1317年)には阿彌陀の種子である「キリク」が刻まれている。 明治二十九年に胸から下が地震により崩落し、現在も摩滅が進んでおり早急な保護が叫ばれている。


逹谷窟と田村信仰

征夷大将軍坂上田村麿公東征の靈蹟で殺生禁断地、国指定史蹟逹谷窟に関する 最古の記録は「吾妻鏡」文治5年(1189)9月28日の条であり、 これ以降「田村三代記」「諏訪大明神絵詞」「鹿嶋合戦」「神道集」等の中世文学や芸能の他、 日本国中の社寺縁起にこの窟の名が記され、古来奥州で最も著名な窟であり、 また、窟毘沙門堂は岩窟に堂宇を構える窟堂としては、今なほ日本一の規模を誇る大堂であります。

御創建の大将軍に於かれましては「公卿補任」に「毘沙門天ノ化身来タリテ我國ヲ護ル」と記されている様に、 大将軍は神であり、その本地を毘沙門天と見做す田村信仰発祥の霊場として、 貴賤の尊崇を集めて参りました。

窟毘沙門堂内陣の扉の奥に祀られる御本尊様は、慈覚大師が毘沙門天の化現である田村麿公の御貌を模して刻し給うところの秘佛であります。 それ故に、毘沙門様に抱かれた床下の広い空間は往古より守護不入とされ、 諸国行脚の遊行の聖や山伏、乞食等の憩める安住の宿として、 また合戦に敗れた武士が暫し身を隠し、而る後生まれ変わって往く再生の場として、 更には御先祖様の霊魂があの世から帰り来たりて集う聖なる所として、 現在も人の立ち入り事を許さぬ禁足地とされており、その信仰は「現世に毘沙門様を拝めば災に遭うことなく、 極楽往生の際に毘沙門様が必ず擁護し給う云々」と言われる程、隆盛を極めました。

三つの鳥居を潜り達谷窟毘沙門堂の御神域及び別當の達谷西光寺境内に座す諸佛諸神に御詣りすれば、 延暦20年の創建以来、今も変わらぬ田村信仰の佇ひを、きっと懐かしく感じられることでせう。

南無大慈大悲多聞天王

南無田村大将軍

合掌

別當


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