滝野川 正受院(しょうじゅいん)あかちゃん寺 Shojuin Temple 19.Nov.2010 天空仙人の神社仏閣めぐり
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「山門」 | 「本堂」 |
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San-mon | Hondo |
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「山号額」 | |
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Sango-Gaku | |
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「地蔵大菩薩」 | 「六地蔵」 |
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Jizou-Daibosatsu | Roku-Jizou |
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「石造近藤守重坐像」 | |
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Kondou Morishige | |
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「不動明王石像」 | 「不動明王石像」 |
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Fudou-Myoou | Fudou-Myoou |
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Shojuin Temple
東京都北区滝野川2丁目49−5
2-49-5,Takinogawa,Kita-ku,Tokyo
あかちゃん寺 正受院 思惟山正受院浄業三昧寺といい、浄土宗に属し、本尊は阿弥陀如来像です。 弘治年間(1555〜58)大和国に住み不動即我の密法を修していたという学仙房という僧が、 霊夢によって武蔵国に来てこの寺を開いたと伝えられています。(新編武蔵風土記稿) 本堂の向かって左側手前に、近藤守重甲冑姿石像があります。 これは、もと石神井川の洞窟の中にあったもので、明治のはじめ、今の場所に移されたものといわれています。 近藤守重(1771〜1829)は江戸時代後期の北地探検家で、通称重蔵、 寛政10年(1798)松前蝦夷地御用となり、数回にわたり千島方面を探検しました。 この石像は、近藤守重が文政5年(1822)から9年まで、友人であった滝野川の地頭野間正順の領地内、 正受院東隣に文庫を建て、滝野川文庫と名付けて自らもここに住んでいたとき、これを作ったとされています。(滝野川町誌ほか) この本堂の裏側は、不動の滝跡です。「新編武蔵風土記稿」は、この滝について「病者ツトイ来テ浴セリ」と記しています。 この寺は、「赤ちゃん寺」として有名です。 北区文化財 案内板より
不動の滝跡 不動の滝は、泉流の滝とも称され、正受院本堂裏の峽から坂道を下った石神井川の岸にありました。 「江戸名所図会」は、この地の江戸時代後期の景観を次のように説明しています。 正受院の本堂の後、坂路を廻り下る事、数十歩にして飛泉あり、滔々として消壁に趨る、 此境ハ常に蒼樹蓊鬱として白日をささえ、青苔露なめらかにして人跡稀なり、 室町時代、大和国に学仙坊という不動尊の祈祷を修行する僧侶がいた。 ある時、霊夢を見て東国の滝野川の地を訪れ、庵をむすんで正受院を草創した。 この年の秋、石神井川が増水したが、水の引いた川から不動の霊像をすくいあげた。 学仙坊は、これを不動尊修法の感得した証と喜び、滝の傍に安置したと伝えられます。 不動の滝は、滝の傍に不動尊が祀られていたことから付けられた名称ですが、今も、その跡が僅かに偲ばれます。 北区教育委員会 案内板より
石造近藤藤守重坐像 坐像は、現在の千島列島から北海道までの蝦夷地を探検し、エトロフ島に「大日本恵土呂府」という標柱を建てた近藤守重の肖像です。 守重は、明和八(1771)年、江戸町奉行所与力の次男として生まれ、家督を継いで、通称を重蔵、号を正斎と称しました。 寛政十(1798)年3月、幕府から蝦夷地の調査を命じられ、北方交易の海商高田屋嘉兵衛の協力で、 石像のように、甲冑に身を固めてエトロフ島に渉り、現地の開発に尽力しました。 また、利尻島の探検にも参加し、蝦夷地についての著書も著しましたが、文政五(1822)年から九年までの4年間を、正受院の東隣に、滝野川文庫という書斎を設けて住みました。 石像近藤守重坐像は、この記念に江戸派の画家として著名だった谷文晁に下絵を依頼して制作したと伝えられます 北区教育委員会 案内板より
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