唐招提寺(とうしょうだいじ)      Toshodaiji Temple       20.Feb.2010        天空仙人の神社仏閣めぐり

唐招提寺 Official Page
唐招提寺 金堂
「唐招提寺 金堂」

唐招提寺 講堂
「唐招提寺 講堂」

唐招提寺 戒壇
「唐招提寺 戒壇」

唐招提寺 南大門 唐招提寺 金堂
「南大門」「金堂」
NandaimonKondo
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唐招提寺 講堂 唐招提寺
「講堂」
Koudou
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唐招提寺 鼓楼 唐招提寺
「鼓楼」
Korou
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唐招提寺 開山御廟 唐招提寺
「開山(鑑真和上)御廟」
Kaisan-gobyo
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唐招提寺 唐招提寺
「鴟尾」「うちわの柄」
Shibi
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唐招提寺 御朱印 写真
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奈良 唐招提寺 境内図
「境内図」

唐招提寺(とうしょうだいじ)

Toshodaiji Temple

奈良市五条町13-46

13-46,Gojyo-cho,Nara-shi,Nara


唐招提寺 TOSHODAlJl-TEMPLE

唐招提寺は天平宝字三年(759)、唐の高僧鑑真大和上によって創建されました。鑑真大和上は 聖武天皇の願いに応えて来朝を決意されました。井上靖の名作『天平の甍』にもあるように、五度 の失敗にも屈することなく来日してわが国に戒律を伝え、大和上の称号を賜りました。その後、戒 律を学ぶ道場として、当寺が創立されました。以来千二百五十年、律宗総本山としてその法灯を今 に伝えています。金堂は代表的な天平建築です。

Toshodaiji Temple was founded by Abbot Ganjin(Saint Ganjin), in the third year of Tempyo Houji(759 AD). The Temple was established as a place for Buddhist training under his guidance, and it had been regarded the headqarters of the Ritsu-shu denomination more than 1250 years. Kondo, "Main Hall", is the greatest Tempyo Era structure remaining in Japan today.


この寺の概説

ここは奈良市五条町。奈良の郊外といった感じだが、都が奈良にあった千二百年前は、平城京右京 五条二坊に当り、いわば首都の中心街区であった。西紀七五九年(天平宝字三年)天武天皇の皇子 新田部親王の旧邸地を賜ってここに唐招提寺が創建された。唐の国から来朝した鑑真和上の招提− み仏のもとに修行する人たちの場という意味を寺名として掲げる。別に建初律寺とも称するが、こ れは中国四分律の南山宗による戒律を軸として教学に励むわが国最初の律寺ということである。今 も日本律宗総本山として仰がれている。

開山唐僧鑑真和上(過海大師)は大唐国揚州大明寺の高僧。わが聖武天皇の寵招に応え、授戒の師 として来朝することになったが、754年(天平勝宝六年)東大寺に到着するまで十二年間、前後 五回に及ぶ難航海に失敗したにも拘らず、初志を曲げず、奈良の都に着いた時は両眼を失明してい たほどである。かくて大仏殿の前に戒壇を設け、聖武・孝謙両帝をはじめ、わが国の多くの高僧た ちに授戒した。すでに仏教国家の形態を整えていたわが国が、画竜点睛の実を挙げたのは、まさに 大和上の功績である。このことは中学校の教科書にも出ている事績だが、ひとり仏教史の上だけで なく、ひろく天平文化に及ぼした影響は計り知れざるものがある。まことに日本の大功労者であっ た。

東大寺戒壇院を退いて当寺を建立し、在すこと四年。763年(天平宝字七年)五月六日、七十六 歳をもって寺内に示寂した。弟子たちが師の大往生を予知して造った和上の寿像(乾漆・国宝)は、 山内開山御影堂に安置され、毎年六月六日(五月六日を新暦六月六日に当てる)御忌当日を中心に 前後約1週間開扉されるが、「若葉しておん目の雫拭はばや」と詠じた俳聖芭蕉ならずとも、像前 に襟を正して感動を禁じ得ぬのである。その和上の御廟は御影堂の東に隣接する林中に静まってい る。仏教文化華やかだったあのころに輩出した高僧たちの名は、史上おびただしく遺っているが、 さて、それらのお墓は、たまたま出土品によって明らかとなった行基菩薩の墓所のほか他に例を見 ず、歿後千二百年間香華を絶たずお詣りされてきたのは、ひとりここ和上の御廟あるのみである。

ところがこの寺にも盛衰幾変遷がある。方四町の境内に転奐の美を競い、さらに西山に四十八院を 構えた往時、鎌倉時代の戒律復興に盟主覚盛上人の中興、あるいは近世における東塔や堂舎十数宇 の退転、廃仏毀釈の嵐などを経験してこんにちに至る。今はもとより創建当初の盛んさはないとは いえ、なおよく擁する国宝十七件、重要文化財二百余件、まこと天平文化の大群落であり、かって 「海東無双の大伽藍」「絶塵の名刹」と称せられたゆえんを目のあたりに偲ぶことができよう。

伽藍の案内

開祖鑑真和上千二百年遠忌を機とする寺観復興事業として、天平様式に再建された南大門の正面、 堂々雄偉の金堂を仰ぐ。わが国現存最大の天平建築であり、天平金堂唯一の遺構として君臨するも の。その豊かな量感、ダイナミックな立ち姿、息を呑んで感嘆久しうするのみである。大棟を飾る 風雪千二百年の鴟尾の簡潔な美しさ、「大寺のまろき柱の月かげを土に踏みつつものをこそ思え」 (会津八一)と詠わしめた大円柱の放列は遠くギリシャの神殿を想起させよう。本尊乾漆盧舎那仏、 薬師如来、千手観音、梵釈二天、四天王など創建以来の天平のみ仏います内陣の厳粛さは、そこに 盲いた大徳鑑真和上が今も礼拝瞑想中かと、われらも粛然たらざるを得ない。圧倒されそうな強烈 な芸術性の発揮である。

毎年中秋の月の夜には、この金堂を開扉して諸尊に献灯される観月讃仏会の行事もあって、賓客た ちも秋露とともに法悦に濡れるのである。金堂のうしろに続く講堂は、奈良仏教の上代寺院がいず れも学問寺の性格を濃厚にしていた関係上、講莚聴問の場であったが、この建物は和上の創立に際 して特に宮廷から平城宮の東朝集殿を賜って移築したものであることに注目したい。平城宮跡百ヘ クタールは今は一屋すら留めぬ草原と化したが、幸いに一棟ここに移築されたればこそ、もって当 時の宮殿の片鱗をうかがうことができるのである。その遺重性はただ天平建築たるだけのものでな い。堂内には本尊弥勒如来(鎌倉時代)持国・増長二天(ともに奈良時代)を安置する。

金堂・講堂を結ぶ伽藍中心線の東側には、境内唯一の重層建造物舎利殿(鼓楼)が軽快に建つ。も と和上将来の一二千粒仏舎利を奉安した由緒を持つ鎌倉建築で、今では毎年五月十九日のうちわま き会式(中興忌梵網会)に当って、古式ゆかしい可憐なうちわ(宝扇)を参詣者に撒き頒つ場とし て親しいなつかしさを思い起す人も多かろう。中興上人覚盛大悲菩薩追善のため、上人の薫陶を受 けた法華寺の比丘尼たちが霊前に供えたうちわを、有縁者に授けたことに発端する儀式で、宗祖鑑 真和上の開山忌舎利会(前出六月五日・六日)、解脱上人始めるところの釈迦念仏会(10月21 日〜23日)とともに、当山の印象的な法要として、山内全域に静かな雑踏を見せる日である。舎 利殿に東隣する長大な建物が三面僧房東室の遺構(鎌倉時代)で、南半分は解脱上人釈迦念仏会の 道場(礼堂)に改造されている。僧房は上代寺院が全寮制の学問寺だったことを示す名残りで、か っては多くの律僧たちが戒律きびしい起居をしたところである。

さらにその東の二つの校倉。南が経蔵、北が宝蔵となっている。ともに遺存例少ない天平校倉で、 殊に経蔵はこの寺創始以前、新田部親王の邸宅があったころの遺構だから、七五六年成立の正倉院 宝庫よりさらに古く、わが国現存最古の校倉として記憶されるべきである。宝蔵北側の石畳を東に 歩を進めると、奥まったところに高床式の収蔵施設新宝蔵がある。山内に襲蔵する文化財の、更に 完壁な保存を期して先年竣工したもので工芸・絵画・経文類のほか、処を得ずして講堂内に仮安置 されていた破損仏もここに移された。これらは彫刻史に特に唐招提寺様式という範晴を設定して重 視される一群である。一般的に喧伝されている名宝如来形立像もこのなかにある。すでに仏の役目 を終って破損彫刻となったこの立像の伸びやかな美しさの魅力を味わいたい。

さて鑑真和上御廟の西、境内のたたずまいひとしお清寂ななかに宏大な殿宇が望まれるであろう。 南都興福寺旧一乗院門跡の震殿遺構を精密に復原移築された古建築で、平安貴族の邸宅とその生活 様式をうかがうべき好箇の資料として稀少価値きわめて高い。今では大和上の尊像を安置する御影 堂とし、一山後学あげて宗祖のいますがごとくお仕え申している。和上の尊像は前述の如く六月六 日開山忌当日を中心に約一週間開扉される。この御影堂震殿に昭和五十年東山魁夷画伯が揮毫奉納 された障壁画「山雲」「濤声」なども、和上像開扉とともに公開される。

一方、伽藍中心線西側には鐘楼と戒壇がのこされている。鐘楼に懸るのは平安期の梵鐘だが、これ には「南都左京」という後世の追刻銘があって、歴然たる「右京」五条の地を誤刻したことがわか る。ほほえましい思い違いではある。戒壇は石造三段の豪壮なもので、和上が東大寺に創めた戒壇 院の土造のそれとしばしば対比されるのである。こちらは江戸末期の祝融に禍されて外構を失った が、雨露に堪えて粛然たる厳格さはひしひしとわれらに迫り、おのずから襟を正さしめるであろう。 このたび最上層にインド・サンチーの古塔を模した宝塔を奉安し、周辺も整備して授戒場としての 面目を一新した。

以上は拝観者のみなさんの比較的たやすく目に触れ得るものについて概説した。それも近来の旅行 形態に鑑み、当山内での所要時間を一、二時間と見込んでの案内であってみれば、もとより委曲を つくすこともできぬのはけだし止むを得ぬ。その上、この案内記では繁を避けて境内諸堂諸尊のそ れぞれに一々国宝・重要文化財の表記を省略したが、これは嘱目ほとんどがそのいずれかに該当す るためである。

いずれにせよこの古刹唐招提寺伽藍の整う美しさは予ねて世上に喧伝されていよう。まことに四時 趣きを改めて詩情こまやかである。わけても若葉・青葉の色が山内を埋めつくすころは、宗祖と中 興両大徳の忌日ともめぐり合って感傷するによく、境内随所に咲きこぼれるる萩の盛りのころは、 遠く和上の故郷揚州を偲びながら、頭を垂れて、低個久しうすることができる。もし狭霧立つ朝の 夢幻にも似たほのかな気配と、落陽に染まる天平の蔓の壮麗を知るならば、風趣は一だんと深く古 都の古刹の雰囲気はいよいよ昂揚されるのである。

右のほか江戸末期に惜しくも雷火に失った東塔のあとや、旧二坊大路沿いのいわゆる西山四十八院 あと付近(廃大日堂の本尊大日如来坐像-平安初期-は現在新宝蔵に移座)あるいは四至の東を限る 秋篠川界隈の散策など、情感きわめて深く、かくて半日を清らかに過ごすことができよう。


唐招提寺 

静かな寺、澄みきった寺―それが唐招提寺である。堂々として雄偉な立たずまいながら、磨き上げ られた神経の香ぐわしさがにじみ込んでいる。しかも天平から貞観時代へと、8〜9世紀の日本文 化が歩んでいった美術史の本街道に位いして、もろもろのすぐれた芸術品を遺し、さながら儼たる 古典美の殿堂である はるかに滄波をしのいで 「天平の要請」 に応じた鑑真大和上の大きい足音 を今も新しく聞くような古刹 奈良市五条町 もとの平城右京五条二坊の地、律宗総本山 古くは建 初律寺ともいった けだし本邦最初の律院の謂である。

境内 案内板より


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