吉野 吉水神社(よしみず じんじゃ)      Yoshimizu Jinja Shrine   天空仙人の神社仏閣めぐり

吉野 吉水神社 Official Page

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吉野 吉水神社 参道 写真 吉野 吉水神社 山門 写真

「参道」

「山門」

SANDOSAN-MON
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吉野 吉水神社 写真 吉野 吉水神社 書院 写真

「吉水神社」

「書院」

YOSHIMIZU JINJASHOIN
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吉野 吉水神社 一目千本 写真 吉野 吉水神社 つり忍 写真

「一目千本」

「つり忍」

HITOME SENBONTSURI SHINOBU
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吉野 吉水神社 後醍醐天皇 写真 吉野 吉水神社 義経・静御前潜居の間 写真

「後醍醐天皇」

「義経・静御前潜居の間」

GODAIGO TENNOYOSHITSUNE SENKYO NO MA
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吉野 吉水神社 桜の図屏風 写真 吉野 吉水神社 写真

「桜の図屏風」

BYOBU
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吉野 吉水神社 写真 吉野 吉水神社 写真
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吉野 吉水神社 ご朱印 写真
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吉野 吉水神社(よしみず じんじゃ)

Yoshimizu Jinja Shrine

奈良県吉野郡吉野町大字吉野山1612

1612,Oaza-Yoshino-Yama,Yoshino-Cho,Yoshino-Gun,Nara


吉野 吉水神社

御祭神

第九十六代 後醍醐天皇

楠正成公 吉水院 宗信公

当社は元吉水水院と称し今から凡そ1300年前、白鳳年間に役行者の創立と伝えるきわめて古い 吉野修験宗の僧坊であった。そして明治の初めまで永年の間幾多の歴史を秘めて修験道の勢力と共 に発展して来たが明治維新の神仏分離の際(明治8年)神社と改ったものである。

元より当社は南朝の元宮でありここに後醍醐天皇を祭神とし当時天皇の忠臣であった楠正成、吉水 院宗信法印を合祀している。次に世に名高い当社の歴史の概要を紹介しよう。


後醍醐天皇南朝の皇居

延元元年(1336)京の花山院より免れた後醍醐天皇が吉野に御潜幸になり吉水院宗信の援護の もとに当社を南朝の行宮(あんぐう)と定められたのである。

かくて天皇が当社に第一歩を記されてよりかの悲壮な吉野朝四代57年に渡る血涙の歴史の第一頁 が開かれここに南北朝の対立が始まったのである。

天皇はこうしたへき遠の地に憂悶の数年を過されたが、遂に病を得て悲憤の最後を遂げられたので ある。

即ち当社はその南朝の御本家に当たり現在吉野朝、唯一の行宮である。

 花にねて

       よしや吉野の吉水の

                枕の下に石走る音

この有名な御製(ぎょせい)は今も尚玉座の下に流れ続ける宗々とした瀬古川のせせらぎを聞かれて歌われた御 心中むせぶが如く泣くが如く今に琴線にふれるものがある。

現存されている当時の玉座並びに数々の御物を拝観する時そこに神秘的な南朝の哀史が人々の心に 想い起され哀感の念禁じ得ないであろう。


源の義経、静御前悲恋の古跡

文治元年(1185)源義経は兄頼朝の追手を逃れて静御前、弁慶等と共に吉野に潜入され当社に しばらく亡命されたのであるがそれも束の間追われる者の運命でここから悄然として吉野落をされ 奥州へ落ち延びたのである。

   吉野山

     峯の白雪踏み分けて

       入りにし人の跡ぞ恋しき

と歌われたように当社がいわゆるその天下に名高い義経と静の大ロマンスの舞台である。

悲運に生きた一代の英雄と佳人との雪路の別れを今に追想するときいかに詩的情景であったであろ うか、その余りにも美しい悲恋物語は永く後世に伝えられ愛惜されている。

今尚保存されている「義経潜居の間」「弁慶思案の間」並びに数々の遺物を見聞きするに際し愛妾 一人を残して去った義経の胸の内と夫を一途に慕った静御前の心情とが察せられ一入哀愁が胸を去 来するであろう。


豊太閤豪華花見の本陣

文緑三年(1594)豊太閤が当社を本陣として盛大なる花見の宴を催し数日間滞在されて歌の会、 お茶の会、お能の会を開いて豪遊され満天下にその権勢を示したのは有名である。

    年月を

         心にかけし吉野山

                花の盛りを今日見つるかな

一世の英雄がおのが春を謳歌したもので秀吉の豪快なる一面が現われている。

当時の状況は現存する建物並びに数々の寄贈物を見る時南朝の哀史ときわめて対照的で絢爛たる文 化が偲ばれ感慨無量なものがある。


吉野歴史の殿堂、古美術の宝庫

この様に歴史的に見ても吉野歴史の大半が集約せられ吉野歴史の中心地として萬?の花と共に懐旧 の情切なるものがあり古来より吉野における幾多の兵火を免れた当社は真に吉野文化を物語る殿堂 である。

従って所蔵の文化財頗る多く百二十数点にのぽり吉野随一の宝物を展覧している。しかも内容的に 珍宝名宝並びに日本史における重要な根本資料等特に南朝の資料に関しては全国一多く一般に重要 文化財の宝庫といわれている。


書院(重要文化財)

この神社が有名になったのはその由緒もさることながら実は現存する書院が日本住宅建築史上最古 の位置をしめているからである。すなわち我が国書院建築史の第一頁に位する本格式の住宅建築で 現在日本住宅の源流をなす最古の実例として数々の珍しい手法が見られる初期書院造の代表的傑作 である。又、内容的に見ても「義経潜居の間」は室町初期の改築で床棚書院の初期の様式を伝える きわめて古風な遺構であり「後醍醐天皇玉座」は後年秀吉が花見に際し修理したもので豪華な桃山 時代の風格を残した書院でこれら両期時代の特長が比較出来て真に興味深いものがある。


見わたしの いとよき所(一目千本)

境内には、中千本・上千本一帯が展望できる「見わたしのいとよき所」があり、ここに立って谷か ら吹き上げる風を頬に感じる時、ふと義経・静御前の悲しき別れや南朝の哀史が聞こえてきそうな 気のする詩情豊かな広場があります。又「桃山時代の小庭園」もあり遺跡として「義経駒つなぎ松 跡」「義経馬蹄跡」や「弁慶力釘」がある。

吉水神社パンフレットより


元は吉水院といい、天武天皇の白鳳年間に役の行者が創建したものと伝えられ格式の高い僧坊であ ったものが明治八年寺号を廃して吉水神社と改め、後醍醐天皇・楠木正成・吉水院宗信法印を合祀 しています。

当社は、吉野の歴史を代表する殿堂で文治元年(1185)源義経が兄頼朝の迫害を逃れて最愛静御 前・弁慶らと共にここに身を隠されて世にその純愛物語を伝えています。

また延元元年(1336)後醍醐天皇が京の花山院を逃れて吉水院宗信の援護のもとに当社を行宮 とされ血涙の歴史を記された南朝の大舞台でもあります。降っては文禄三年(1594)豊太閤が 当社を本陣として大花見の盛宴を催し、天下にその権勢を示したのは有名です。したがって当社に 所蔵する宝物はすこぶる多く百二十数点を展観しており重要文化財の宝庫といわれています。

この神社を有名にしたのはその由緒もさることながら実は現存する書院であってわが国書院建築史 の第一頁に位する本格派の建物で初期書院造の代表的傑作とされています。

いまもなお書院内に「義経潜居の間」「弁慶思案の間」「豊太閤花見の間」等が残されています。

境内 案内板より


「後醍醐天皇玉座」

この部屋は延元元年後醍醐天皇が京の花山院より秘かに吉野に御潜幸になりし時 この吉水院の宗 信法印が300名の僧兵を従え天皇をここに御迎えし天皇もこの御へやを南朝の皇居と定められ  かくて吉野朝歴史の第一頁が始まったのである。天皇は建武中興の大偉業のため日夜涙ぐましい御 努力をされ血涙の御生活をされたが 遂に王政復古の夢成らず延元4年ここで病を得て悲憤の最後 を遂げられたのである。

「花にねてよしや吉野の吉水の

      枕のもとに石走しる音」

この有名な御製はここで御寝の際歌れたものでその御心中察するに余りある。


「豊太閤花見の居間」 

又後年文禄3年に秀吉が南朝を偲んで当社を本陣として盛大なる花見の宴を催されこの御部屋に約5 日間滞在され歌の会、茶の会、御能の会等開いて豪遊され一世の英雄がその権勢を天下に示したのは 有名である。


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