補陀洛山 那古寺(なこじ) 那古観音 Nakoji Temple 坂東三十三観音霊場第33番札所 31.Oct.2014 天空仙人の神社仏閣めぐり
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「仁王門」 | |
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Nioumon | |
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「観音堂」 | 「観音堂(圓通閣)」 |
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Hondo | Hondo |
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「圓通閣 扁額」 | |
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Hengaku | |
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「多宝塔」 | 「阿弥陀堂」 |
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Tahouto | Amidado |
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「邪鬼」 | 「邪鬼」 |
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Jaki | Jaki |
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「金剛力士像」 | 「金剛力士像」 |
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Kongo-Rikishizo | Kongo-Rikishizo |
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「八大龍王堂」 | |
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Hachidai-Ryuoudo | |
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千葉県館山市那古1125
1125,Nako,Tateyama-shi,Chiba
第33番 補陀洛山 那古寺(那古観音) 宗派:真言宗智山派 本尊:千手観世音菩薩 開基:行基菩薩 創立:養老元年(717) 住所:千葉県館山市那古1125 電話:0470-27-2444 【御詠歌】補陀洛は よそにはあらじ 那古の寺 岸うつ浪を 見るにつけても
元正天皇は、養老五年(721)の9月に、突然の病に臥された。 行基が勅命によって千手観音に祈願すると、本尊が壇上に現れて、安房国那古の浦にて日本の補陀落を祈れ、と告げた。 そのころ安房国では、那古の浦の沖に大船が出現し妙音を奏でたので、人々は恐れて漁に出ることができなかった。 そこに行基がやって来て、迎請の印を結ぶと、船は浜辺に近づき、なかから毘沙門天が現れて、香木を行基に与えた。 その木で尊像を刻み安置したところ、たちどころに天皇の病も平癒したので、伽藍を建立したと伝えられる。 源頼朝が帰依して堂塔を建立、足利尊氏や里見義実も篤く信仰した。 江戸時代には、鶴岡八幡宮の別当を兼ね、二百八十余石を領して、隆盛を極めた。 かつては山上にあったが、元禄十六年(1703)の大地震で倒壊し、 宝暦九年(1759)岡本兵衛を奉行として、現在地である中腹に再建された。
千葉県有形文化財(建造物) なごじたほうとう つけたり もくぞうほうとう 那古寺多宝塔 附 木造宝塔 <県指定:昭和40(1965)年4月27日> 宝暦11(1761)年 三間多宝塔、屋根銅板段葺 那古寺多宝塔は、塔の中心となる心柱にある墨書銘から、宝暦11(1761)年に建てられたことがわかります。 県内の多宝塔は、南房総市石堂寺と那古寺の2例そかないため、 江戸時代中期の那古寺多宝塔は、室町時代末期の石堂寺多宝塔(重要文化財)と比較して、 建築技術の推移を知る上でも貴重な建造物です。 三間多宝塔で、下層は方形、上層は円形です。その上に宝形造の屋根を置き、屋根の上に相輪をのせています。 下層の廻縁には高欄が付けられ、柱上を結ぶ組物を支える台輪の上の斗組は二手先で、斗が前方に2つ出て桁を受けています。 先端に、象鼻と呼ばれる彫刻をつけています。 この出組を用いて四方に屋根を葺き、その上に、方形の下層と円形の上層を結合する亀腹があります。 この亀腹は、全国的に例が少ないクスの素木造です。 上層の出組は四手先で、屋根の重さを受けるため、組物の途中に斜めに突き出して斗を押し上げる尾垂木には、 江戸時代中期によくみられる龍鼻という彫刻をつけています。 本来は上部構造の重みを支えるものであった本蟇股に、装飾の動植物彫刻が施されている点などは、江戸時代の特色をあらわしています。 また格天井裏の、緩やかに湾曲した装飾的な梁である虹梁の上に、方柱の心柱を建てていることや、 通常は塔の心柱の周囲に配される4本の四天柱の前方2本が欠け、二天柱となっていることが、この多宝塔の特徴です。 四方にある入口は両開きの板戸で、内部中央の須弥壇に木造宝塔が据えられ、その後ろには火燈窓を付けた来迎壁があります。 この木造宝塔は、多宝塔と同時期のもので、方形板葺、軸部は球形で四面を火燈形にくり抜き、内部に大日如来を安置しています。 この多宝塔は、元禄16(1703)年の元禄地震で、 壊滅的な被害を受けた那古寺の再建に勢力的に取り組んだ伊勢屋陣右衛門を願主に、 府中(現在の南房総市)の上野庄右衛門、那古の加藤清兵衛など、 地元の大工によって建てられたことが心柱にある墨書銘からわかり、地域の歴史を物語る資料として貴重です。 平成20年3月 館山市教育委員会 境内 案内板より
千葉県有形文化財(建造物) なごじかんのんどう つけたり ずし 那古寺観音堂 附 厨子 <県指定:平成6年(1994)年2月22日> 江戸時代(18世紀) 桁行5間(14.998m)、梁間5間(14.316m) 入母屋造、一重、向拝一間、桟瓦葺 那古寺観音堂は、千葉県を代表する江戸時代中期の寺院建築です。 館山湾を見渡す那古山の中腹に建ち、海上の保安や航海の安全を祈る対象としても信仰され、 「平成の大改修」にあわせて修理された本尊「木造千手観音立像」(館山市有形文化財)などが安置されています。 建築の時期は、今まで宝暦8(1758)年とされてましたが、 元禄16(1703)年の大地震で、那古寺の堂塔のすべてが倒壊した後、 観音堂の再建は享保17(1732)年に完了していたことが、「平成の大改修」でわかりました。 間口5間、奥行5間のいわゆる五間堂で、正面に向拝があります。 柱は、床から上は円柱ですが、床下は八角に面取りされています。 また、屋根の切妻のところにある妻飾には邪鬼の彫刻が彫られています。 観音堂内にある欄間彫刻の刻銘に、宝暦9(1759)年、江戸蔵前の札差大口屋平兵衛や、 那古の釜屋太左衛門等によって奉納されたことが記されています。 内陣中央の厨子は、棟札から天明元(1781)年の作であることがわかりました。 軒下の斗組は、すべて龍鼻がつけられ、屋根は入母屋造りで、三方に唐破風をつけています。総ケヤキ作りで、素木の入念な作です。 平成20年3月 館山市教育委員会 境内 案内板より
重要文化財(有形文化財・彫刻) どうぞうせんじゅかんのんりゅうぞう 銅造千手観音立像 <国指定:昭和59年(1984)年6月6日> 鎌倉時代(13世紀) 像高 104.8cm 千手観音は、詳しくは千手千眼観自在菩薩といい、もっとも複雑な形をした観音です。 一般的には、頭上に11面の顔をいただき、千の手を持ち、それぞれの手にある眼で広く老若男女を救うといわれ、 人々から深く信仰されてきました。 千手観音といっても、手の数は、中央の2手の他に、40の手を持つものがほとんどです。 「千手」とは、1本の手で25の世界の老若男女を救う、つまり40×25=1000ということに由来します。 この像は、本尊と同じ千手観音菩薩像ですが銅造です。頭上に11面の顔をいただき、42の手を持っています。 頭部から躯幹は一度に鋳造され、胸前の合掌手と腹前で組合わせている宝鉢手は別に鋳造し、肩の部分で取り付けられています。 左右の手は、前6手、中7手、後6手と3段にわかれ、前後の手を中段に釘で止め、中段を体部に差し込んでいます。 鋳上りは優れ、一部に当初の鍍金が残っています。 髪は一本一本毛筋を立て、写実的な描写がなされています。 また、その引き締まった体部の肉取りや、にぎやかな衣文の構成などから、作家は鎌倉初期の慶派に学んだ、 鎌倉中期の仏師であるとされています。 顔は目、鼻、口を集中させ、頬に張りを持つきびしい表情で、肩先と腹部を強く突き出した体部のつくりから、 作家の個性がうかがわれ、13世紀全般に制作された金銅仏の優品です。 脇手右前列の接合部には、願主のものと思われる「平胤時」という人名が刻まれています。 これは「千葉大系図」に、『吾妻鏡』嘉禎3(1237)年4月19日条から、宝治元年(1247)年5月14日条にかけて、 9回にわたり将軍に供奉する騎馬の随兵としてその名が見え、鎌倉時代中頃とされる像容とも合致します。 東国武士の信仰による、確実な造像例としても貴重です。 平成20年3月 館山市教育委員会 境内 案内板より |
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