京都 祗王寺(ぎおうじ)    Giouji Temple  3.MAY.2003 天空仙人の神社仏閣めぐり

祗王寺 Official Page
祗王寺 写真 祗王寺 写真
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祗王寺 写真 祗王寺 写真
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祗王寺 写真 祗王寺 吉野窓 虹の窓 写真
「吉野窓 虹の窓」
YOSHINO MADO
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祗王寺 玄関 写真 祗王寺 宝筐印塔と五輪塔 写真
「祇王寺の玄関」「宝筐印塔と五輪塔」
HOKYOIN-TO & GORIN-TO
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祗王寺 写真 祗王寺 写真
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祗王寺(ぎおうじ)

Giouji Temple

京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32

32,Saga-Toriimoto-Kozaka-Cho,Ukyo-Ku,Kyoto


現在の祗王寺は、昔の往生院の境内にある。往生院は法然上人の門弟良鎮に依って創めら れたと伝えられ、山上山下に亘って広い地域を占めていたが、いつの間にか荒廃して、さ さやかな尼寺として残り、後に祗王寺と呼ばれるようになった。 祗王寺墓地入口にある碑には「妓王妓女仏刀自の旧跡明和八年辛卯正当六百年忌、往生院 現住、法専建之」とあって、此の碑の右側に「性如禅尼承安2年(1172)壬辰8月1 5日寂」と刻んであるのは、祗王の事らしい。 安永の祗王寺は明治初年になって、廃寺となり残った墓と木像は、旧地頭大覚寺によって 保管された。大覚寺門跡楠玉諦師は、これを惜しみ、再建を計画していた時に、明治28 年(1895)、元の京都府知事北垣国道氏が、祗王の話しを聞き、嵯峨にある別荘の一 棟を寄付され、此が現在の祗王寺の建物である。これ等の関係で祗王寺は大覚寺の塔頭で 真言宗である。

「平家物語」の巻頭に、

祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。 おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し・・・・・・

と美しく書き出してあるが、更に読み進むと祗王祗女の事が出てくる。これは平氏全盛の頃、 平清盛と二人の女性の哀れな物語である。

その頃、都に聞こえた白拍子の上手に祗王、祗女と言う姉妹があった。 近江の国野洲江辺庄の生れ。父九郎時定は、江辺庄の庄司であったが罪があって、北陸に 流されたので、母と共に京都に出て、白拍子となり、のち姉の祗王が清盛の寵を得て、 妹祗女も有名となり、毎月百石百貫の手当もあり、安穏に暮らしていた。

或時清盛が祗王に、何か欲しいものがあるかと尋ねると、祗王は、自分の生国は水の便が 悪く、毎年旱害を受け、一庄三村は飢餓に苦しんでいるから、願わくば、水利を得させて 戴きたいと願った。清盛は早速、野洲川から三里の溝を掘らせ、水を通した。里人はこれ を徳として溝を名づけて、祗王井川と呼び、今に至っている。

所がここに加賀の国の者で、仏御前と呼ばれる白拍子の上手が現れて清盛の西八条の館 に行き、舞をお目にかけたいと申し出た。清盛は、

神とも言え、仏とも言え、祗王があらんずる所へは叶うまじきぞ、とうとうまかり出でよ

と門前払いをしたが、祗王が、やさしく取りなしたので、呼び入れて、今様を歌わせるこ とにした。仏御前は、君を初めて見る折は、千代も歴ぬべし姫小松 御前の池なる亀岡に 鶴こそ群れいて遊ぶめれと繰り返し三べん歌ったが、声も節も頗る上手だったから、清盛 は、たちまち心を動かして仏御前に心を移した。 昨日までの寵愛は何処へやら、祗王は館を追い出されることになった。せめてもの忘形見 にと、

萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき

と障子に書き残して去って行く。あくる春になって清盛は仏が退屈しているから、舞を舞 って仏をなぐさめよと使者をよこすと、祗王はもとより行く気は無かったが、清盛の権勢 と母の哀願に抗しかねて、館に行って、

仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なり いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ 悲しけれ

と歌い舞った。並み居る諸臣も、涙を絞ったと言う。祗王は、「かくて都にあるならば、 又うき目を見むづらん、今は都を外に出でん」とて、祗王21、祗女19、母刀自45の 三人、髪を剃って尼となり、嵯峨の山里、今の祗王寺の地に世を捨て、仏門に入る。母子 三人念仏している所へ竹の編戸を、ほとほととたたく者がある。出てみると、思いもかけ ぬ仏御前であった。

祗王の不幸を思うにつれ、いずれか秋にあわで果つべき、書き残された歌を誦するにつけ て、無常を感じ、今朝、館をまぎれ出でて、かくなりてこそ参りたれと被っていた衣を打 ちのけるのを見れば、剃髪した尼の姿であった。わずかに17にこそなる人の、浄土を願 わんと深く思い入り給うこそ、と四人一緒に籠もって朝夕の仏前に香華を供えて、みな往 生の本懐を遂げた。

吉野窓

控の間の大きな窓を吉野窓と言い、影が虹の色に表われるので一名虹の窓とも称している。

仏間

仏壇には本尊大日如来、清盛公、祇王、祇女、母刀自、仏御前の木像が安置されている。 祇王、祇女の像は、鎌倉末期の作で、作者は不詳であるが、眼が水晶(玉眼)で鎌倉時代 の特徴をよく表わしている。

宝筐印塔

正面向って左宝筐印塔が祇王、祇女、母刀自の墓、右の五輪塔は清盛公の供養塔、いずれ も鎌倉時代の作、重要参考品とされている。

祗王寺しおりより


祇王寺(往生院)

往生院祇王寺と号する真言宗の寺である。  

寺伝によれば、この地は、平安時代に、法然上人の弟子、念仏房良鎮(りょうちん)が往 生院を開創し、後に祇王寺と呼ばれるようになったと伝えられている。  

平家物語によれば、祇王は、平清盛に仕えた白拍子であったが、仏御前の出現により清盛 の心が離れてしまったので、母刀自(とじ)、妹祇女と共に出家し、当地に移り住んだ。 後には、仏御前も加わり、念仏三昧の余生を送ったと伝えられている。  

現在の本堂は、明治28年(1895)に再建されたもので、堂内には、本尊大日如来像 をはじめ、平清盛と祇王ら四人の尼僧像を安置している。  

境内には、祇王姉妹等の墓と伝える宝筐印塔及び平清盛の供養塔などがある。

京都市 案内板より


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