王子稲荷神社(おうじ いなりじんじゃ) Oujiinari Jinja Shrine 天空仙人の神社仏閣めぐり
「王子稲荷神社」 | |
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Oujiinari Jinja Shrine | |
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「お石さま」 | |
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Oishisama | |
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「絵馬」 | 「絵馬」 |
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Ema | Ema |
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「火防せ凧」 | 「火防せ凧」 |
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Hibuse-Tako a kite | Hibuse-Tako a kite |
「暫狐」 | 「凧」 |
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Shibaraku-Kitsune a fox | Tako a kite |
「凧市」 | 「凧市」 |
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Tako-Ichi | Tako-Ichi |
「絵馬」 | |
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Ema |
Oujiinari Jinja Shrine
東京都北区岸町1の12の26
1-12-26,Kishi-Machi,Kita-Ku,Tokyo
JR京浜東北線王子駅から徒歩約3分
ご利益 商売繁盛、災難除け
祭神は宇氣母智之神、和久産巣日神、宇迦之御魂神です。もと岸稲荷と称し、創建は不詳ですが、 治承4年(1180)源頼朝が源義家の腹巻(鎧の一種)、薙刀等を奉納したと伝え、古くから関東惣社と称したということです。 社殿は、寛永11年(1634)王子神社とともに幕府の手で造営され、元禄16年(1703)にも幕府によって造営され、 現在の社殿は文政5年(1822)建立によるものです。 「江戸名所図会」は、当時のこの界隈の賑わいを「実にこの地の繁花は都下にゆづらず」と伝えています。 この神社には「額面著色鬼女図」があります。これは、天保11年(1840)、 江戸の住吉明徳講(東京砂糖元売商組合の祖)が柴田是真に委嘱して描かせ、 業界の守護神と崇敬するこの神社に奉納した絵馬で、渡辺綱に腕を切られた羅生門の鬼が、叔母に化けてその館を訪れ、 すきをみて切られた腕を持って逃げる姿を図にしたものです。 また、拝殿および幣殿の格天井に、谷文晁による竜の絵があります。 北区文化財案内より
王子稲荷神社 御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ) 宇氣母智之神(うけもちのかみ) 和久産巣日神(わくむすびのかみ) 康平年中に征夷大将軍、源頼義により「関東稲荷総司」の称号を頂く。小田原北条氏についで、 徳川将軍家代々の祈願所と定められてきた。 現在の御社殿は十一代将軍家斉公により新規寄進されたもの。落語「王子の狐」の舞台でもある。 北区神社めぐり より
王子稲荷神社由緒記 御祭神は、世に「稲荷大明神」と称え奉る衣食住の祖神で、古来産業の守護神として、 広く庶民がおまつりする神さまであります。 王子稲荷神社は、今から一千年の昔「岸稲荷」と称して、この地にまつられたお社で、社記に 康平年中、源頼義、奥州追討の砌り、深く当社を信仰し、関東稲荷総司と崇む と、伝えており、西暦1060年の平安朝中頃には相当の社格を有していたものと考えられます。 元亨二年(1322年)に近隣の地に領主豊島氏が、紀州の熊野神社を勧請し王子神社を祀った処から、 地名も王子と改まり、当社も王子稲荷神社と改称されました。 小田原北条氏は当社を深く尊崇し、朱印状を寄せており、江戸時代には、徳川将軍家の祈願所と定められて大層栄えました。 代々の将軍の崇敬は、極めて篤く、社参は勿論、三代将軍家光公は、寛永十一年に、社殿を造営し正遷宮料として金五拾両、 その他諸道具一式を寄進せられ、次いで五代将軍綱吉公は元禄十六年に、十代将軍家治公は天明二年に、 それぞれ、修繕を寄進されましたが更に、十一代将軍家斉公は文政五年(1822年)に、社殿を新規再建されました。 八棟造り極彩色の華麗な社殿は、江戸文化の最高潮、文化文政時代の粋を伝え、当時の稲荷信仰の隆昌が偲ばれます。 然し、惜しいことに、この度の大戦中、昭和二十年四月十三日、空襲によって本殿など大破しました。 その後、昭和三十五年に本殿の再建が行われましたので、現在の社殿は、拝殿幣殿は文政五年の作、本殿は昭和の作ということになります。 又、昭和六十二年には、社殿の総塗り換えが百六十五年ぶりに行なわれ、神楽殿も新規に建て替えられました。 翻って、沿革を尋ねますと、江戸時代は、所謂「神仏習合時代」で、 当社の御祭神についても、新編武蔵風土記、江戸名所図絵等に「本地は聖観世音、薬師如来、陀枳尼天なり」と記されています。 王子稲荷神社は、明治維新まで禅夷山東光院金輪寺が別当として王子権現(王子神社)と共に管掌し、 住民は「王子両社」と称して等しく、氏神として崇めて来ました。 現在は明治政府の神仏分離政策により廃仏棄釈が行なわれ、金輪寺そのものは二坊を残して廃寺となっています。 当社へは遠方よりの参拝者が多く、諸方の街道筋に「王子いなりみち」という標石や、 奉納石灯籠が建てられて、参詣人の道しるべを務め、 又、飛鳥山の桜の花見をかねての行楽客もあり、門前には茶店、料理屋等が数多くありました。 そのうちの一軒は今でも現存しており、道しるべの灯籠の一部は境内に移築保存(昭和三十二年)されています。 境内は台地の中腹にあって、約二千坪、今では市街を見渡す眺めのよい高台ですが、 昔は、こんもりと茂った杉の大木に包まれて、昼の暗く、山中には沢山の狐が安住し、神使として大切にされていました。 その跡は、今も、「お穴さま」として保存されています。 狐に因む伝説は数多くありますが、料理屋と狐を舞台にした「王子の狐」の落語は当時の模様をよく伝えています。 又、江戸名所図絵、東都歳時記、新編武蔵風土記に記載する、″毎歳十二月晦日の夜、諸方の狐夥しく、 ここに集まり来る事、恒例にして今に然り。その灯せる火影に依って土民、明年の豊凶を卜す。云々″ という伝説は、最も有名で「装束榎」は、これらの狐が、 身仕度をした処と伝えられる場所で、″装束の榎まで待つ王子なり″(東鳥)という句も残っており、 その跡には、装束稲荷の祠が建てられています。 徳川幕府代々の将軍家の厚い保護と共に、大老田沼意次が立身出世したのは、 屋敷に稲荷が祀ってあったからという評判によることもあって、庶民の中に稲荷信仰が大層盛んになり、 中でも王子稲荷の商売繁昌と火防せ(ひぶせ)の御神徳は広く知れわたる処となりました。 そして、江戸中期より二月の初午には「火防守護の凧守」が授与されるようになり、これを祀ると火難を免れ、 息災繁昌するとて社頭は賑いを呈し、これに因んで、縁起の凧を商う凧市が境内で開かれるようになり現在に至り、東京名物となっています。 社宝には、絵画に、近世の大家柴田是真の「茨木」の扁額があります。 これは、天保十一年のもの、作者の出世作といわれる名品で、昭和九年九月一日、文部省から重要美術品に指定されました。 この図柄は、″その昔、羅生門に出没して、京の民衆をおびやかしていた鬼女があり、 渡辺綱という武将によりようやく退治されたものの、その七日後、渡辺綱の伯母にばけて訪れ、 その折に切り落された自分の片腕を取り返すやいなや、元の鬼女の姿に戻り、地をけって空に舞い戻ってしまった″という話の最高の場面を描いたものです。 奉納者の砂糖問屋組合は、当時天保の改革で各方面の粛正をしていた幕府に対して、 商権回復運動をしていたので、とりあげられた商権を鬼女の腕にたとえて大願成就を願意を籠めたものであるという挿話が伝えられています。 拝殿の天井には、幕府の御殿絵師・谷文晁の「竜」の板絵が二枚掲げられていましたが、 そのうち一枚の墨絵の方は、今回の修繕時に史料館へ収蔵され、 代りに院展同人の画家・関口正男筆の「鳳凰」がはめ込まれています。 王子稲荷神社社報より
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