松陰神社(しょういん じんじゃ)    Shoin Jinja Shrine    天空仙人の神社仏閣めぐり

松陰神社 Official Page
松陰神社 写真
「松陰神社」
Shoin Jinja Shrine

松陰神社 写真 松陰神社 写真
「拝殿」
Haiden
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松陰神社 吉田松陰先生墓 写真 松陰神社 松下村塾 写真
「吉田松陰先生墓」「松下村塾」
Shoin Sensei no Haka
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松陰神社
「松陰神社」
Shoin Jinja Shrine

松陰神社 鳥居 松陰神社 扁額
「鳥居」「扁額」
ToriiHengaku

松陰神社 帳 松陰神社 松陰先生像
「帳」「松陰先生像」
TobariShoin-Sensei Zou

松陰神社 絵馬 松陰神社お守り
「絵馬」「松陰神社お守り」
EmaOmamori

松陰神社(しょういん じんじゃ)

Shoin Jinja Shrine

東京都世田谷区若林4−35−1

4-35-1,Wakabayashi,Setagaya-Ku,Tokyo

東急世田谷線松陰神社前駅から徒歩5分

TEL. 03-3421-4834 


御祭神  吉田寅次郎 藤原矩方命


御由緒

松陰先生は、天保元年(1830)8月4日長門の国(山口県)萩において、藩士杉百合之助常道の次男として生まれる。

名は矩方、通称寅次郎、字名は松陰、二十一回猛士と号す。

松陰先生5歳のとき、世々山鹿流兵学師範の吉田家を嗣ぐ。 つとに尊皇攘夷を唱え憂国の志甚だ深く、海外に航して宇内の形勢を究めようとしたが果たせず、 松下村塾で家学を教授し、維新の大業を翼賛した俊秀の青年多数ここより輩出した。 明治維新の先覚の士、松陰先生の愛国の至誠は、独り日本人のみならず広く世界の人々の敬仰するところである。

  「親思ふ こころにまさる親ごころ

        けふの音づれ 何ときくらん 」

安政6年(1859)10月27日安政の大獄に連座し、江戸伝馬町の獄中で刑死、後千住小塚原に葬られた。 (享年三十歳)4年後の文久3年(1863)松下村塾門下生、高杉晋作、伊藤博文等により此の世田谷若林の地に改葬された。

神社所在地一帯は、旧毛利藩主毛利大膳大夫の別邸であった故を以て、大夫山(だいぶやま)と呼ばれている。

明治十五年先生門下の人々相謀り、墓畔に社を築いて松陰神社とあがめ、先生の御霊をまつり、長く忠魂の鎮座する所となった。

現在の社殿は先生没後五十年祭を記念して、昭和2年(1927)に造営されたものである。

鎮座百余年を過ぎた今日、勉学、進学、開運厄除、の神として崇敬を集めている。

社頭 由緒書きより


明治15年長州藩士吉田松陰の霊をまつる。この地は同藩主毛利大膳大夫の抱(かかえ)屋敷であったので俗に大夫山とよばれた。

松陰は安政3年(1856)長州萩において松下村塾(鳥居脇にあるのはその模したもの)を開いて高杉晋作、 伊藤博文ら多くの子弟を薫陶し、かれらに大きな影響をあたえたのである。

松陰は安政大獄のときに処刑されたが、後、ひそかに頼三樹三郎らと共に、神苑の西方老松楓樹のもとに葬られた。

世田谷区教育委員会 案内板より


吉田松陰先生他烈士墓所

文久3年(1863)正月。高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、 松陰先生の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓の木の下に改葬し、 先生の御霊の安住の所とした。 同時に小林民部、頼三樹三郎も同じく回向院より改葬。 その数日後、来原良蔵の墓を芝青松寺から改葬。同11年、福原乙之進を埋葬した。

禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されたが、 木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、更に綿貫冶良助を埋葬、中谷正亮を芝 清岸院より改葬、長州藩邸 没収事件関係者の慰霊碑(井上新一郎 建立)を建てた。 その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から先生墓所前の石燈籠と墓域内の水盤が、謝罪の意を込め寄進された。

明治8年、来原良蔵妻 和田春子を埋葬。明治37年、桂太郎が長州藩 第四大隊招魂碑を建立。 明治42年、遺言により野村靖を埋葬。明治44年、野村靖夫人野村花子を埋葬。 昭和33年松陰先生100年祭にあたり松陰先生 墓域の柵を修復した。


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